『部落差別の謎を解く』を読み、溶けた謎の中にひきこもりの問題を見た。

部落
僕は若者支援の相談員として、
知らない間に被差別部落の人と接触していたかもしれない。
(同じようにセクシャルマイノリティの方とも)

そして僕は、それに気づかず、
苦しみを感じてあげられずにスルーしていた。

…のではないのか?

と感じることがあり、とりあえず何か読んでみようと手を出したのが、
ご自身も被差別部落出身者である川元祥一さんの『部落差別の謎を解く』だ。

別に、僕は何も望まれていないのかもしれないし、
別に、僕に何ができたかなんてわからないけど、
支援者としてのイマジネーションを数センチでも深く出来ればいいと思って。

江戸の歴史からはじまり、「ケガレとキヨメ」について、
様々な考察がなされたこの本には、
僕の知らなかったことが充満していた。

その中でもっとも僕の心に響いた一文は以下であり、
部落差別問題から大きく飛躍し、差別問題について考えさせられた。
少し長いが、引用させてもらう。

人種差別や民族差別、宗教や男女の差別などがよく知られていますが、それぞれ解決の道筋はかんたんではないものの、それぞれの特性は最初から誰の目にも明らかです。差別は何らかの差異を根拠に社会的不利を被ることといえますが、(中略)こうした人権問題にあって、部落問題だけは最初の根拠といえる差異が見えないのです。差異が見えにくくて差別だけが突出するものだから「いったいどうして?」とわけがわからなくなる。差異がはっきりしていれば、共通認識のもとに対話がはじめられるのですが、最初の差異がわからないので、共通の認識が持ちにくく、従って発言もこもりがちです。



僕はなんとなく部落問題に、ゆるく関心を持ちつつ、
なんとも掴みどころのなさと、日常での実感のわかなさ、
まさにここに書かれている、差異のなさが、
僕をこの問題から突き放すのだ。

この「差異が見えない」というところで、
職業病というか、どうしても僕はひきこもりの問題と被せて読んでしまった。

ひきこもりの問題は、
「差異が見えない」のではなく「姿が見えない」のが問題だ。

差異がないのに差別されているのと、
姿が見えないのに決めつけて語られているのと、なにか似ていないか。

そして、その想像上の彼らのイメージの国民的なコンセンサスが、
「働けるのに働かない若者」となっているんだろうと思う。

僕はこれを差別という気はないけど、
差異が見えず、共通認識がもてないから議論が生まれない部落問題と、
姿が見えないので、対話がはじめられない、ひきこもりの問題の似て非なる問題が、
どこか底暗い部分の、日本人のメンタリティとして、
つながっているんじゃないか。

ひきこもりの子どものことを隠し続ける保護者のメンタリティには、
「ケガレ」のような、触れるとうつるような罪悪感があるのではないか?
そして誰も「キヨメ」られる者が現れない…。

僕はそんな風にこの文章を読み、
このセンテンス以降、ずっとそういう目で読んでいた。

そして、おわりにを眺めていて、
僕の感じていた思いが、作者とシンクロしていたことに驚いてしまった。
川元祥一さんは、こんなことを書いている。

現代的に「精神の漂流」とか「精神の空白」といわれる社会現象に深いところで関連しているのではないか。そんなことが感じられてならない。



同感である。

部落差別の問題については、一定程度の知識を得られたが、
僕はその溶けた謎の中に、新たなひきこもりの問題を発見したような思いがしている。
それを言葉にするのはまだ難しいけど、棚上げしたくない問題である。
関連記事
スポンサーサイト
xmlns:og="http://ogp.me/ns#"