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支援者という第三者が活躍するサードプレイス

都市生活者には三つの“居場所”が必要だといわれます。第一の場所(ファーストプレイス)が「家」。第二の場所(セカンドプレイス)が「職場」。そしてその二つの中間地点にある第三の場所を「サードプレイス」と呼びます。



今日知った言葉、「サードプレイス」になんかピンと来た。

僕が若者自立支援という仕事を始めたとき、
自分が第三者であるということを、どうキープしていくかってことが、
いかに大事かということを、
すごく教え込まれたような気がしている。

恐らく、教育システムなんて確立していなかった時期のNPO法人にいたので、
「ここは大事なとこ」と僕が心の赤線を引いただけの場所かもしれない。

ある時、上司に支援方針に対しての不安を伝えると、
「石井君はお母さんじゃないんだよ、お母さんになってない?」って問われたことがあり、
ハッとしたことを覚えてる。

僕は、その相談者に感情移入し過ぎたあまり、第三者性を失っていたのだ。
(サードプレイスのファーストプレイス化)

僕のいた支援者文化の中で、一番の名言は以下だと思っている。

保護者だからできないことがあり、支援者だからできることがある。
しかし、支援者だからできないことがあり、保護者にしかできないこともある。


これは、

ファーストプレイス(家)でも、セカンドプレイス(職場)でもない
サードプレイスに住む住人にしか救えないことがあるんだよ。
でも、それはファーストプレイスの住人がしっかり役目を果たして、
はじめて成立することなんだよ。


という教えだったんだと、今夜、咀嚼することができた。

この保護者と第三者(支援者)のできることをしっかり果たした時に、
若者は自立ができるんだと思う。
そして、どちらかが、その役割を果たさなかった時、
生涯続く遺恨を残すんだと思う。

「石井君はお母さんじゃないんだよ、お母さんになってない?」

この問いは、多くの遺恨を背負い込んだ先人たちの言葉なのだ。

措置入院というものが、
命を守る最善の措置であれば許されるのかしれないが、
そうでない、責任放棄の末に行われてしまう場合がある。

この判断は難しいと思うが、
保護者が保護者としての役割を果たさない中で決断され、
措置入院させられた若者たちの呪詛を、悲しいかな僕はけっこう聴いてきた。
そしてその呪詛を吐く人は、しんどい状況に陥っていた。

第三者という関わりは、昔の地域社会では「お節介」として、
当たり前にあったことだと思う。

井戸端ってのはサードプレイスってやつだったんじゃないかと思う。

個人情報保護法や、社会の価値観の変容とともに
このお節介がしにくいものとなり、
第三者をカネで雇うしかなくなっている。
或いは公共事業で国が提供しなければ得られないものになっており、
それが、僕の職業になっている。

それがこの国である。

このことをしっかり考えたい。

今日聞いた、サードプレイスという言葉は、
僕の支援者体験と、コミュニティよりも、もう少し小さいスペース、
例えば図書館に対する環境設定をする上で、重要な概念だと思った。

僕が今携わっている、田奈Passなんかが、
サードプレイスというものに対する、
新たな概念付けを果たす役割に成り得るのではないかと感じた。

なんらかの形で、僕らが今実践していることをアウトプットし、
この社会を1ミリでも前に進めることに、貢献できるのではないかと思う。
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