課題集中校では「学生的学習」から「社会人的学習」への移行を在学中から行うべきではないか?

まぁ、この話は確信を持って書くわけじゃないんですが。ちょっと前の「ほぼ日」で、糸井さんが、学生の頃の勉強は答えを見ちゃいけませんとか、人に聞いちゃいけないとか、人に頼らず1人で考えることが大事なこととされてるけど、社会人になるとこれが一気に変わるんだよな、ってことを書いてました。

勉強はできるけど仕事はできないとか、またはその逆とかって、こういうところにその答えがあるんじゃないかな?

勉強ができないけど、仕事ができる人は、ひょっとしたら、1人で考えてやる仕事は苦手だけど、いろいろな資料を編集し、他人の実績から引用して新たなものを生み出すことに長けている人かもしれませんよね。

糸井さんが何が言いたかったのかは忘れてしまいましたが、仕事の遅い人や効率の悪い人は、この「学生的学習」と「社会人的学習」の違いに気がついていない人なのかもと、ちょっと思いました。

ゼロから何かを生み出すことがクリエイティブだと信じ込んで頭を抱えたりする暇があったら、既存のクリティカルな点をいくつか見つけ出し、そこに関連性を見出した方がクリエイティブな線が引けたりすることが大概です。

よく言われるように、「無から有は生まれない」のです。そういった意味では自分の中の「有」=「点」をいかに持てるかは、いわゆる「引き出しの多さ」ということになりそうですね。しかし、ここに“持てる者”と“持たざる者”の差が、どうしても生まれてしまう。この格差の話はまた今度にして、話を先に進めます。

先週、数年前にぼくが担当していた定時制高校の女子生徒の引率で、いつもぼくの相談を聴いていた先生が、「石井さんが生徒に数学が苦手なら電卓使えばいいんだからさ、苦手なものを努力で超えるんじゃなくてツールで超えよう」とアドバイスしていたことが新鮮な衝撃だったと話してくれました。

その先生は、それ以降、ぼくのトークを使わせてもらっているとのことでしたが、やっぱり「学生的学習」を教える先生は努力で超えさせようと、当然のように思考するんだと思いつつ、そこに学校と社会のギャップがあるんじゃないか思ったりしたんです。

勿論、学生的学習は、いわゆる「地頭」を鍛え、考える引き出しを増やすのには有効なんだと思いますが、例えば、漢字が極端に書けないとか、かけ算ができない学力下位校の生徒たちの職業的自立を3年間で達成しようと考えた場合はどうなんでしょう。

ここでいう学生的学習法で、3年間かけて一般並みの学力にする努力で苦痛を味わうよりも、むしろ社会人的学習法で、ITを含む様々なツールの活用方法をマスターしたり、メディアリテラシーを上げて、楽をして成果が上がる方法を知ってもらった方がいいんじゃないかと、元課題集中校の落ちこぼれだったぼくは思うんです。

これは、中退理由によくある「学業不振」にも作用して、中退予防になるかもしれません。また、“持たざる者”が「知識/知恵」へ自由にアクセスし、課題解決の道を知ることは、自己肯定感を育むことができる可能性も感じますし、彼らを待ち受ける排除的な社会を生き抜くサバイバル・ツールになるかもしれません(それをどう活用するかは次の段階で、それがメディア・リテラシーですかね)。

いわゆる課題集中校で積み上げ式の学習がダメな生徒たち、漢字が書けない生徒たちには、社会人的学習に在学中から切り替えるべきだということを思い、長々書いてしまったわけです。

ぼくが出会う、職業経験の浅い若者たちというのは、学生的学習習慣が抜けておらず、社会人的学習習慣に適用できていない人たち、という見方もできるかもしれません。そして、そのギャップから抜け出せていない状態ということかもしれませんね。
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