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貧乏子育て論「トイレ本は文化的シャワー」

ピエール・ブルデューは人間の持つ資本を、
文化資本、経済資本、社会関係資本の3つに分類し、
これらの資本を多く持つ人ほど、進学や就職において有利であり、
高い社会的地位につくことができると言っている。

これは真実だと思う。
これに少し、後期資本主義社会な現代的解釈を加えた、
個人的な子育て論を書いてみたいと思う。

ちょっとでかく出過ぎた感が否めないが大丈夫だろうか?

後期資本主義社会という、
経済的資本がままならない縮小経済時代を生き抜くためには、
人と人が支え合う互恵型の社会関係資本が重要になっていくと思う。
その際、文化資本は人と人とを結びつけるソーシャルボンドであり、
金銭化できない価値、つまり「絆」を生む源泉になると僕は考えている。

生活困窮等で文化資本を持ち得なかった人たちは、
文化的な共通言語や共感、シンパシー、
それらによる他者理解や受容や寛容性が持てず、
結果として社会関係資本を築けずに孤立しやすくなってしまうだろう。

そうなると困窮から抜け出す機会を得られず、
貧困の連鎖から抜けることができなくなり、
格差として固定化していってしまう。

だから文化資本こそが、
こんな時代のコア・キャピタルとでも言おうか、
最重要な資本だと僕は思っている。

文化資本は経済的資本がないと築けない。

これは半分正解で半分不正解だと僕は思う。

学歴や資格など、
お金を生むような文化資本は経済資本がなければ手に入れられないが、
人と人を結びつける、つまり社会関係資本を生むような文化資本は、
経済的資本がなくても“望めば”手に入れられる、と僕は考えている。

しかし、文化資本のなさの本質的な致命傷は“望まなくなる”ことにある…。
ちょっとこの話は、さらに大袈裟になるのでまた今度にしよう。

文化資本は経済的資本がないと築けない。

これは言い換えるまでもなく、
「経済的資本格差が教育格差になっている」ということだ。
これに対して「NO」というために大学の無償化などが言われていて、
僕は全国民に対して文化的インフラが享受できる社会を目指すべきであり、
それこそが社会的投資なのだと考えている。

個人史的なことをいえば、僕は中学生くらいから、
音楽やファッション、アートや文学に関心を強く持ち、
少ない小遣い→安い給料をやりくりして文化にコミットし続けてきた。

それがやがて若年者就労支援というものに出会い、
産業構造やら教育などにも関心を持ち始め、
コミュニティーというものを意識するようになった。

(僕自身は哲学的でも経済的でもなく、
 文学的にこれらに対峙して行きたいという思いを持っている)

このことで今の自分を築き、
それを土台に構築した社会関係資本の中で、
なんとか今日まで生きて来られていると本気で思っている。

そんな僕の貧乏子育て論のテーマは、
「文化的なシャワーをいかに浴びさせてあげれるか」というものである。

前置きが些か大袈裟になってしまったが、
それが知らぬ間に「トイレ本」というスタイルとして、
我が家に定着していることについて書きたいと思う。

トイレに図書館から借りてきた本やらを置いておくと、
「そんなものまで!」と思うものまで、
子どもたちが目を通していて驚くことがある。

考えてみれば、子どもたちにとって、
トイレほど退屈な場所はないのだろう。

以前、とても個性的なキャラの長女が、
その個性をバカにされ落ち込んで帰って来たことがある。
僕は「あなたのそういう個性は素晴らしいと思うよ、普通に合わせる必要なんかないんだよ」
と、声を掛けた。長女は僕にこう反論してきた。
「トイレの本に『まずはフツーをきわめなさい』」と書いてあったもん!うわ〜ん」

そんな本を見ていたとは…。

この間も車で移動中、
妻が「トレイにある雑誌(クーリエ・ジャポン)の中で、
穴の空いた道路を見つけて写真で撮って送ると、
行政がそれを修理するというサービスがあってあれはいいと思った」と言ったら、
長女が「私も見た、あれいいよね〜」と同意した。

帰って探してみたら雑誌の中程にその特集記事はあった。
二人とも難しいところは飛ばして、興味あるところだけで読んでると言う。

僕が度々使っている「文化的なシャワーを浴びせる」というのは、
まさにこういうことだと思っていたのでほくそ笑んでしまった。

僕は時間があればほぼ図書館に毎週通う。
子どもたちが時間があれば付いて来て本を借りている。
借りて来た本はトイレに置いておき、
シャワーのように読まなければただ流してしまう(返してしまう)。
ただただ新しい本(それなりにセレクトはする)が、トイレにいつもある状態を作っておく。
このことがとても重要なことだと思ってやっている。

ちなみに長男は、
僕の好きな『竜馬がゆく』や『燃えよ剣』をトイレで読破し、
その他の本もほぼ読んだと言っている。

つい先日は、終戦記念日ということで『HIROSHIMA』という、
名も無き被爆者の方々が書いた絵を集めた本を借りてきて、
もっとも目立つ飾って置けるスタンドに立てておいた。

刺激が強すぎて、姉妹からクレームが来るかな?とちょっと心配になるほどの本。
クレームが来たらなんでそこあるかをちゃんと説明しよう、
そんな気持で本を置いておいたが、何も言って来ない。

これまでの流れでは見ないはずがないので見てるんだろう。
何か感じるものがあり、何も言わないんだろうと、僕は受け止めているし、
見てなければそれはそれでいいと思ってる。

それが押し付けの教育ではなくシャワーということだと思っているから。

そしてそのトイレの永久保存版コーナー(本来トイレットペーパーなどを保存する場所)には、
宮沢りえの『サンタフェ』が所蔵されている。
もう、息子は観たのだろうか?

追伸

妻は、もう10年以上小学校で図書ボランティアをやっている。
そのせいで絵本も毎週10冊近く図書館から仕入れて来ては、
リハーサルを兼ねて、子どもたちに読み聴かせている。

家には楽器がそこら中にあり、物心つくと音を出し、
家の中で音楽がかかっていない時間はなく、
子どもたち自身も音楽をセレクトしてお風呂でも聴いている。

中3の長女が高田渡の「生活の柄」を口ずさみ、
小6の次女はサニーデイサービスの「青春狂走曲」を口遊んでいる。

こういうことが我が家的な文化的シャワーであり、
こんな時代を行く抜くサバイバルツールになっていってくれればと思っている。

皆さんのお宅ではどうしょうか?
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