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『教室内(スクール)カースト』なくならないこの問題と僕らはどう対峙していくのか?

『教室内(スクール)カースト』鈴木翔著を読みました。

スクールカーストはありますよね。人はどこかで相手を値踏みして、自分より上か下かっていうのをやってしまう。それは、子どもたちの特性ではなく、人の習性なんでしょうね。

むしろ大人たちの方が名刺交換の時や、主婦の井戸端会議(←最近こういうのないかw)なんかに露骨に値踏みしてるんじゃないでしょうかね。

だから値踏みの習性自体を問題にしてもしょうがなくて、むしろその習性や、この本に書いてあるような成り立ちみたいなものをしっかり理解して、大人たちがどう対応するかだと思うんです。

その時に、その習性とクラス制の相性は最悪で、スクールカーストをベースとした「コミュニケーション操作系」のいじめが発生し、その解決は絶望的だとこの本は言ってて、僕も同意です。

とはいえ、クラス制のメリットも大きいので、クラス制廃止に踏ん切りがつかないんでしょうね。それもよくわかります。

読んでいて、掃除の時間に教師がスクールカーストを感じるというのが、ふむふむな感じがしました。しかもホウキを持てる生徒がスクールカーストの上位グループだと。

そうかも。下位グループは雑巾で床拭きとかね。嫌われてる子の机を誰も運ばないとか。今ではあるあるネタとして笑えますが、当事者の生徒はたまらないですよね。

高校で相談員をしていると、どうしてもこういう可視化されていない暗黙の秩序のようなものに敏感になります。敏感じゃないと、相談に来た生徒の気持ちに寄り添えないので。

確かに学校の中を見渡すと、我が物顔の一軍は目立つし、三軍の子たちがヒソヒソと憚りながら、隅っこで話しているみたいなのを見ます。

今、高校内で相談員をしてて思うのは、我が物顔の一軍だから悩みがないわけではない、ということ。みんな、あんな顔して、こんな顔して大変なんだってこと。

よく、そんな状態でそんな風に明るく振舞ってたねって。ほんと労ってあげたくなるような生徒が一軍にもいるんですよね。

しかし手応えとして感じるのは、困難を脱出する力や可能性は、一軍にはあって、三軍はその力が弱く、長期化するリスクが高いような気がするんです。

僕は、この困難を脱出する力がスクールカーストを生んでいるんじゃないかと朧に思うし、ひょっとしたらスクールカーストが、脱出する力を奪うのかもしれない、なんてことを読みながら考えました。

困難を脱出する力の違いは、一軍の方がバイト先等、明らかに人的資本=協力者を持ってて、精神的な逃げ場を持っていることが多いんですよね。僕はこの逃げ場が3rd プレイスであり、湯浅誠的“溜め”なんだと思っています。

そういう家と学校以外の場所、言い換えれば親と先生以外の大人たちの中で、自己肯定感や、社会や大人に対する期待感を一軍の連中は育んでいるんですよね。

それが大人から見て単純にカワイイ。そのカワイさは、若者の生きる力そのものだと僕は思います。

三軍と呼ばれる彼らにないのが、この人的資本や逃げ場となる3rd プレイス。この溜めのなさのせいで、何かあるとポキッと折れてしまい、2nd プレイス(学校)すら失ってしまい、1st プレイスである家庭に手を差し伸べてくれる人がいないから孤立していく…。

実は、彼ら彼女らはそのことをよく知っていて、折れないように必死なんだ。それがスクール・カーストの切なさだ。このことを大人たちがどこまで想像してあげられているのか…。

一人でいた方が、大人といた方が楽なのに、なんとか一人でいないように友人たちの輪の中にいる。ここが自分の本当にいる場所ではないという居心地の悪さを感じならがら…。

こんなことを言った生徒がいた。「何かあったとき、そばにいるのは大人じゃなく友だちだから」。だから息苦しくても、自分自身で守るためのセーフティネットを張るために、友だちの中に我慢しているんだと。

こんな涙ぐましい人的資本形成に疲れ果てて僕らのところにやってきて泣く。

今のは本書でいう三軍の話として書いたけど、必死に一軍にしがみついてるという話としてもよく出会う。

弊社の行った大学生のアンケートで孤立していると感じているか?という問いに「どちらともいえない」と答えた学生が多かったんだけど、僕はこの必死に友人たちにしがみつく高校生の姿とだぶる。

ちょっと気を抜くとスクールカーストの下位層に転落する恐怖を抱えているのが、どちらともいえないと答えた学生ではないのか?

三軍に位置づけられている彼ら彼女らに気付いて欲しいのは、そのカーストはスクール内限定であり、卒業した瞬間に価値基準は、モテるとかイケてるとかではなくなり、できるかやれてるかということになるということ。

卒業した途端にこの子は生きやすくなるだろうなと感じる生徒にこの話をよくするんだけど、想像はできるけど、残念ながら理解はできないようです。それは当然なことだと思う。経験せずに理解なんてできっこない。でも、その想像が柔らかな踏ん張りどころになってくれればと願って話します。

人の習性としての値踏みであるスクールカーストはいじめ同様なくならないと思う。このなくならないものと僕らはどう対峙していくのか。それを考えるいい機会だと思う。
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