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石巻の大川小学校を訪れました。

火曜日に、被災地の若者の自立支援プロジェクト『いしのまきNOTE』という、仙台のNPO法人Switchさんが行うプロジェクトの発足準備で石巻に行ってきました。

津波の被害に遭った被災地に入るのはこれが初めてでした。生活ができる状態に戻す復旧と、そこから新たな街づくりを行う復興とがあって、復旧が終わったら復興ということでもないわけで、同時進行で、混ざり合いながら営まれているその光景は、なんとも落とし所のない感情を抱かせます。

もっとも凄惨な姿の石巻はテレビ等の報道や、現地に入った仲間たちからの話でしか知らない僕は、当時の映像を脳裏から引きずり出し、目の前に広がるクローバーが花盛りの草原(元は住宅街)に重ね合わせようと必死でしたが、震災後に建てられたキレイな建物と、被害を最小限に留めた建物と、津波に飲まれ一階部分を失ったまま放置された建物とが目まぐるしく車窓から情報として入り込む僕の頭は、到底被災当時にたどり着くことはなく、ただただ混乱していました。

大川小学校

全校児童108人の7割に当たる74人が近くを流れる北上川の橋のたもとで津波に飲まれ亡くなった大川小学校を案内していただきました。学校に着くと、すぐそばに裏山があり、なぜこの山に登って避難しなかったんだろうという強い憤りと、避難しなかったことへの疑問がわき起こります。その思いは、ここで我が子を捜索しつづけた親御さんたちの胸中にずっと渦巻いた思いだろうと思うと辛くなり、泣けてきました…。

帰宅後、気になって大川小学校のことを調べると、震災前の当時の石巻市のハザードマップには、大川小学校には津波が来ないことになっていて、避難場所にも指定されていました。だから、先生たちは校庭に避難していれば大丈夫だと思った。そこへ津波警報の放送が流れても、登りにくい山に全校生徒を登らせるという選択をせず、近くの北上川に架かる橋に向かった…。本当に悔やまれます。

現地に行くと、すぐそこに海があることがわかる広大な北上川のそばの、若干低地(に見える)に建つ小学校に危うい印象を持ち「こんなところに小学校を建てたのか」と思います。でもそれは、3.11後の悲しい学習をしたあとの視点だからでしょう。3.11以前の視点では、そうは見えず、きっとレンガ造りのモダンな校舎と立地を見て、素敵な小学校だと、ただただ単純に思ったことでしょう。

この悲しい学習経験を忘れてはならない、それがここで亡くなった子どもたちや先生への弔いだと思い、校庭だったであろう場所に落ちていた、校舎の欠片であるレンガを拾いました。しかし、これを持ち帰るのは精神的に重過ぎるなと、ポケットにそのレンガを入れるのを躊躇(ちゅうちょ)しました。それほどに、まだ手付かずに全壊した校舎や慰霊碑は生々しく悲しみを発していました。しかし、この光景を目撃した者の義務として、この光景を忘れてはならないと思いポケットに入れました。

その日が11日だったからだと思いますが、ご遺族の方らしき、お父さんとお母さんと高校生ぐらいの女の子が、慰霊碑に手を合わせに訪れていました。本当に無意識に、妹を亡くしたお姉さん、ちょうどうちの娘たちと同じ年齢差だったんだろうと、何の疑いもなく思い込んでしまい、いつまでも慰霊碑から一人離れないお姉さんと長女がダブり、涙が出ました。

カウンセラーという職業柄、自分が声を掛けるとしたらなにを言うのか、ということを想像しましたが、なにも考えれなかったです。その無力感がまた悲しみとなりました。

東京の家に帰り、子どもたちに動画と写真を見せて説明し、レンガの欠片を見せました。高校生の息子は「やばっ」と言いました。その「やばっ」という衝撃を忘れずに、いつか自分が同じ状況に陥ったら、なんとか生き延びて欲しいと思いました。

僕らに出来ることは忘れないこと、そして見たことを子どもたちに伝えること。自分の中で風化させないことだと、今さら被災地に入った僕が、今さら震災のことを考えはじめています。
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