2016年01月

夢日記(1月29日)

今朝、逃げる殺人犯の前にぼくが立ちふさがり、犯人を射殺しようとしたんだけど、引き金が引けず躊躇している間に打ち殺されてしまうという夢を見た。
面白いことに、夢の中で射殺されたぼくには意識がはっきりとあり、残された家族の生活をありありと眺め、その会話を聞いている自分がいた。つまり失ったものは身体だけだった。
なんとか自分の存在に気づいてもらおうと、様々なコミュニケーションを図ろうと試みる。ぼくからのサインを家族がちゃんと受け止めてくれていることで、家族の幸せが保たれていた。
懐かしい映画『ゴースト』はそんな物語だったような気がする。確実に妻や長女と目が合っているのに、気づいてもらえず、すっと自分の中を通り過ぎていく感じは、なんとも切なかった。
この世からいなくなった自分の部屋を長男に使ってもらうべきだと思っていたら、そのようになっていく感じとか。ぼくが植えた木に根が張り、生き生きと成長していくとか…。
自分がいなくなった世界に残した、自分が生きていた他愛のない形跡が、残された家族や友人たちを癒していることに安心した。

死ぬということは、生きている者と生前のようにはコミュニケーションが取れなくなる。そんな当たり前のことを悟ったりつつ、死んでもなお、自分の残した思い出を通してコミュニケーションが継続している様子を見て、日々を生きていることの有難さを感じ、足跡を残すような生き方をしていきたいと目が覚めて思った。
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『ソラニン』を読んで、ぼくはあの頃のように怒らなくなった理由を見つけた。

ぼくが漫画を読むのはとても珍しいんだけど、『ソラニン』という漫画を読んでる。タイトルに惹かれたことと、絵のタッチが好きで、フリーターの種田が彼女の芽衣子と同棲しながらバンドやってる物語が、自分の青春とも被る。

就職せずに夢を追うと決めた種田が、普通の就職を決めた芽衣子に向かって、「それは君が選ぶべき人生ではない」みたいなことを言うシーンがあって。芽衣子がうんざりしたように、「私に自分を重ねるのをやめてよ」みたいなことを言う。

これが印象に残ってたわけだけど。古い支援者仲間から、「石井さんが支援をしていて若者に一番伝えたいことを、若者たちの前で話してよ」というイベントへの登壇依頼があった。

「一番伝えたいことねえ~」と、電車の中で考えていたら、ふと、ぼくは若者とケンカをしなくなったなぁ、と思った。

昔は本当によくキレて、若者とケンカしてた。「キレてもいいけどさぁ、テクニックとしてキレれなきゃプロじゃねえだろう」と名言ぽいこと言われて怒られたりして。

あの頃、ぼくは若者たちに自分を重ねていたんだなって、『ソラニン』を読んで気がついた。ぼくの怒りは種田と同じで、「それは君が選ぶべき人生ではないだろう」というものだったんだよなあと。

そして、いつしかぼくは、ぼくを若者に重ねなくなり、委託事業という行政からの頼まれ仕事になったせいもあり、ぼくは若者を怒らなくなった。

ぼくが若者じゃなくなったからだろうか?

多分きっと、彼ら彼女らが、今の時代の若者なりに自分の人生を一生懸命生きようとしていることに気がついたからだと思う。

ちなみにまだ『ソラニン』は読み終わってない。読んだら映画も観てみよう。

出張日記〜滋賀〜

先週末、京都駅から草津へ移動する琵琶湖線に乗り込んだ直後、「橋げたにトラックが突っ込んだ」というのっぴきならない理由で電車が運転見合わせになってしまった。前泊地に辿り着けばいいだけのスケジュール、ぼくに焦りはほとんどない。

いつ動き出すかわからない電車の中で出発を待つよりも、京都タワー横のお気に入りの居酒屋「へんこつ」に行くことにした。ぼくはここの、おでん、牛テールを赤味噌で煮込む大鍋の底に沈んだホルモン系のお肉を底から救い上げる、名物のサルベージが大好物なのだ。

5時の開店と同時に、常連客数名に混じって入店。注文を終え、サッポロの瓶ビールで一息吐いたところで、店のおばちゃんに「琵琶湖線が止まってるんだけど、草津には電車でしか行けないんですかね?」と訊ねた。まあ、そんなことはiPhoneで調べればすぐにわかるんだけど。

狭い店内の、一人飲みの客しかいないカウンター。BGMもないせいで、ぼくの声は全員に届いたようだった。「そういえば止まってたね」とか、回答に困っているおばちゃんの代わりに「電車しかないよ」と教えてくれる人。大将の「何があったの?」という質問に、ぼくは橋げたの話をした。

「JRも慎重だねえ」という誰かのリアクションに少し笑ってしまった。ある人は過密ダイヤの弊害だと言って、なんで○○線まで止まっちゃうのかななどと各々が好きに話していると、人知れずスマホで調べてくれていた人が「あっ、もう動いてますよ」と教えてくれた。

「あぁ、よかった」とだけ言って、礼も言わないぼくは、サルベージに入っているよく煮込まれて柔らかくなっている様々なホルモン系の肉を吟味しながら食べ、赤味噌の汁を啜った。やがて偶然京都に居た東京の仲間が合流し、お互いの仕事の話をしてすぐに別れた。

豊かさとは金の使い方ではなく、時間の使い方ではないかと最近思うようになった。

追記:ちゃっかり帰りにも「へんこつ」に寄ってしまった。またこの味を楽しめるのはいつの日になることか…。

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若者支援者は鏡のような自分を創るお仕事。キャリア・カウンセラーは鏡のような自分とのコミュニケーションを円滑にする仕事。

質問を受け、その答えを鏡のような自分に一度問いかけてから返答する、ということをぼくらは無意識的に、或いは意識的にしていると思う。
ところが、この問いかける鏡のような自分を持たない(持てない、持てなかった)人というのが相談者の中にはいます。

そのような人たちの多くは、借り物のQ&Aを心の引き出しにしまい、質問に応じて、引き出しを開けて答える、というようなことをソーシャル・スキルとしてします。

ですが、Q&Aには人格がないので、いくつかの質問に答えるうちに、整合性がつかなくなったり、引き出しが空っぽだったりして答えられずに、質問者を苛立たせてしまうということがあります。

また、間違った引き出しを開けてしまいドン引きされた、空気を読まないと言われたなどは、発達障害の方たちには多いエピソードですよね。

このような経験を繰り返しているうちに、引き出しの答えが間違っているんじゃないかという不安に変わり、質問に答えることができなくなり、コミュニケーションを避けるようになってしまう人もいます。

この質問が面接官からの質問だったらどうでしょう。鏡のような自分がいない求職者は、面接官の質問に、必死に借り物のQ&Aの引き出しを検索して答えようとしますが、採用のプロは借り物の言葉だということにすぐに気が付きます。まず採用されることはないでしょう。

不採用になった鏡のような自分を持たない人たちの取る対策は、空っぽだった引き出しに新たな借り物のQ&Aを入れることだったりするわけですが、これが無業期間を長期化させる要因になっている場合がとても多くあります。

理由は明白です。新たな借り物のQ&Aにもやはり人格がないのです。

では、鏡のような自分とは何でしょう?

きっと、人と交わったり、ケンカしたり、仲直りしたり、なにかに夢中になって打ち込んでみたり、読んだ本や見た映画、景色、つまりは経験。その経験が創り上げた自我なんだと思います。

ぼくら若者支援者というのは、この自我の形成のお手伝いをする専門職なんだとぼくは思っています。だから、上記の経験をなんらかの理由でできなかった人たちに、無理やり鏡の中の人を作っても意味がないんですよ。

その鏡の中の人は、相談室というカウンセラーとの一対一の時にしか現れてはくれません。

この経験にとことん付き合い、鏡の中の人を創ること、これが若者支援者の仕事です。一方、鏡の中の人とのコミュニケーションを円滑にするのがキャリア・カウンセラーの仕事ですよね。

この辺、借り物のQ&Aを仕込むことが得意なキャリア・カウンセラーの方々に考えてみてほしいことだと思っています。

自分のクライエントが、問いかける鏡のような自分を持たない人なのか、或いは持てない、または持てなかった人なのかどうか、しっかりアセスメントしてあげてほしいと思います。

社会的孤立が可視化される雪かき事情「雪かきをしないのは住人からのSOS」

ここ数年、東京にもまとまった雪が毎年降り、雪かきなんかしたことがなかったのに、いつの間にか恒例の季節行事になり、ご近所さんと「今年はまだましだね」なんて会話をしています。

今日の東京は、降雪から三日が経っていて、雪かきをしていない日の当たらない道路はアイスバーンで危ないったらありゃしません。

そんなアイスバーンを慎重に歩くたびに思うのですが、世の家というのは、単純に、①雪かきが出来る家と、②出来ない家と、③出来るのにやらない家があるわけです。

これは、②と③の世帯が社会的孤立の状態にあることを示していると想像できるのではないでしょうか? というのが、今回のテーマです。

特に東京のような、雪対策のインフラが整ってないエリアでは、雪の残り具合は、社会的孤立を把握する手段として、とてもわかりやすい手段ではないでしょうか。

特に②は、体力のないお年寄りが住人であることが想像されます。高齢で外出が困難な上に、家の前がガッチガチのツルッツルです。買い物にも行けず、誰にも助けを求められずに家の中で困窮している可能性が想像されます。

お年寄りの孤独死が社会問題になっていますが、孤独死をする前に、ガスが止まったり、ポストに郵便物が溜まるなど、世帯の困窮状態を知らせる微弱なSOSが発信されるといわれています。

結局、この微弱なSOSを誰もキャッチできずに孤独死が起こるわけですが、ここで話題にしている“雪かきができていない”状態というのは、微弱を通り越した「SOS」として解釈するべきなのではないかと思うわけです。

降雪後、三日経っても玄関前が雪かきされていない住人のいる家には、市役所の職員が巡回して、安否確認をするみたいなことはできたらいいなと思います。そして、しかるべき福祉サービスや、NPO法人等の市民活動団体との接続をアシストしてあげられないものでしょうか?

また、③は、お年寄りではない可能性が高いですが、ご近所付き合いがないという点で②と共通しています。世帯にある程度の収入があると、世帯の課題が家の外に出ないと言われますが、②のやれるのにやらない、或いはやりたいのはやまやまだがやる余裕がないというのは、湯浅学的な“溜め”のない状態が想像されます。

この機会に一言お声かけが出来るといいかもです。それが難しければ、さり気に雪かきをお隣までしてあげることで、なにかのきっかけになるかもしれませんよね。

以上、ぼくの本業である生活困窮や若者支援と地続きな話題かと思い書いてみました。
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