2015年06月

『ABOUT WORK』 〜キャリア教育がシゴト・テイスティングになるといいなと思う〜

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たのしいシゴトってなんだろう。それを見つけるために必要なのは、どんなシゴトが好きかを知ること。好みは人ぞれぞれ。

『ABOUT WORK』 より



これは、写真の『ABOUT COFFEE』という本に書いてあった以下の文章のコーヒーをシゴトに入れ替えたもの。

おいしいコーヒーってなんだろう。それを見つけるために必要なのは、どんなコーヒーが好きかを知ること。好みは人ぞれぞれ。

『ABOUT COFFEE』より



朝、大好きなコーヒーを飲みながら、ふむふむと、この当たり前の事実について考えてみました。頭の中には、ちょっと前にお邪魔した、青葉区の「えっ!こんなところに?」という場所にある『Blue Door Coffee』の店頭に並んだ、品種や焙煎の違う、キレイな瓶に入った茶色いコーヒー豆たち。

『ぴっかりカフェ』で、意味ある暇つぶしとして、1年生の女子2名にOHBYカード(様々な職業カードを「選択する」「考え中」「選択しない」に分けることで、職業興味領域を知れる)を実施してみました。

結果は半分案の定なのですが、「選択する」=やってみたいと思った職業カードが2人とも1枚もなかったんです。これは即ち、飲みたいコーヒーがなくメニューを閉じちゃった、という状態ですよね。

でもそれは端から見てた人の感想で、当の本人たちは「味がわからないからどれを頼んでいいかわからなかった」ということが本当のことだと思います。

ここでコーヒーをシゴトに変換してみると、進路指導室に求人票を見に行ったけど、どのシゴトがたのしそうかわからなかったから、ファイルを閉じて出てきちゃったということになります。

例えば「よくわからないからいつものクリームソーダでいいや」というのは、「別にフリーターでも全然いいしぃ〜」ということに置き換えられそうです。

ちなみに、“案の定” というのは、若年無業者など働いた経験がない人は職業イメージが少ないので、OHBYカードはピンとこない人が多いんですよ。だから、どうしても「選択する」が少なくなりがちなんです(だからぼくは価値観カードを通常は使ってます)。

『Blue Door Coffee』のオーナーさんが、いろいろな焙煎のコーヒーを淹れて、近くの中学校でテイスティングしてもらうという活動をしているとおっしゃってました(なんて素晴らしい!)。その狙いは、味の違いを知り、コーヒーやコーヒーの文化に興味を持ってもらうことです。

職場体験はテイスティングだとぼくはずっと考えています。飲み比べなければ、焙煎の加減やブレンドの妙味、熱すぎるより、少し冷めてからの方が美味しいとか、これはミルクを入れると合うとか、実際の飲んでみないとわからないですよね…。

キャリア教育が生きた教育になるために必要なことは、この比較出来るテイスティング感から、シゴトに興味をもってもらうことがポイントだと思うんです。

現在、高校で実施されている職場体験は1人1社1日程度だと思います。これを対象学年の全生徒にあまねくセッティングする労力は相当なものであることを重々承知の上です書きますが、職種の違う3社くらいのシゴトを体験できるとテイスティング感が増していいですよね。

或いは1社ですごく長〜く体験ができるとか、しかも有給で。あ、それはNPO法人パノラマが提供している有給職業体験バイターンですね(笑)。

そういえば、OHBYカードの「考え中」が多かったのは、アルバイトしている生徒で、アルバイトをしていない生徒は「考え中」も少なかったですね。アルバイトがシゴト・テイスティングになっている証かもしれません。
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支援者が「したい支援」と相談者が「されたい支援」のすれ違い〜趣味的な仕事はもう止めにしないか?〜

支援者が「したい支援」と、相談者が「されたい支援」がドンピシャに同じなら、両者にとってこれほどハッピーなことはないだろう。しかし、現実にそんなことはどれくらいあるのだろうか?

例えば、「安定した仕事に就きたい」という主訴を単純化すると「お金が欲しい」ということになり、「対人関係が上手く築けない」という主訴なら「友だちや恋人が欲しい」ということになるだろう。

でも、ぼくのような相談の仕事はセレクトショップではないので、「それならこんなのはいかがでしょう?お客様にぴったりだと思いますが」と、ダイレクトに問題解決につながるモノやコトを提供することはできない。

ぼくらができることは、問題解決につながるモノやコトを得るための方法を、こんなやり方はどう?と提案し、その提案自体を阻害している要因を分析し、解決するお手伝いしかできないわけである。

要するに、魚をあげるのではなく、その方にあった魚の釣り方を教えてあげるしかないのだ。これは良心的配慮ではなく、こちら側、即ち支援者の限界としてそうせざるを得ないのである。

こういう有様だから「したい支援」と「されたい支援」はズレることを常としていると考えた方が自然だ。しかし、そうは思わない支援者や支援機関が多いのが実態なんじゃないかと思う。

このズレを出来るだけなくすためにインテーク(事前面談)などがあるようだが、これがそもそも「されたい支援」ではなかったりするから、支援というのは本当に難しいものなのである。それにも関わらず、規則として「したい支援」をしてしまう私たちって…(この辺から自戒を込めていきます)。

このズレが、時に残酷なほど相談者を傷つけてしまうことがある。私たち支援者がタチが悪いのは、ここに悪意がないことである。こういうのを「善意の押し売り」というのではないだろうか。

クライエント・ファースト

クライエント・ファーストとは、支援者が「したい支援」をするのではなく、クライエント=相談者が「されたい支援」を最優先に提供するということを指す言葉である。

ただこれも、若過ぎて情報があまりになかったり、パニック状態に陥っていたり、無自覚の共依存だったり、例を挙げたら切りがない理由で客観性を欠いた状況に置かれた相談者が求める「されたい支援」というのは、支持できないものが多いのも事実である。

これをクライエント・ファーストという体で、本人に寄り添いながら、やんわりとしたトライ&エラーの中で、本人が気付いていくことに“付き合う”こと、こそ自体がクライエント・ファーストということではないだろうか。でも、ここを大幅に端折って、「したい支援」をしがちですよね。

いずれにしろ相談者の複合的にこんがらがった問題をすべて受け切れる支援機関も支援者は存在しない。ましてや、縦割りの行政委託事業では、狙いに沿った相談員の専門性の配置から外れた層の相談も多く寄せられ、キャリアカウンセラーがそのスキルをまったく発揮できない就労支援の現場は腐るほどあったりする。

そうなると、どう考えたって「したい支援」は、そうそうできるものじゃない。ここに支援者の自己実現の壁が立ち塞がることになる。

◯◯士になりたかったのか、悩んでる人の救いになりたかったのか?

初期衝動は、悩んでる人を救うのが目的であり、その手段として○◯という学問を手段として学んだのに、専門性を獲得した途端に、手段が目的化し、すべてを専門内で捉えるか、捉え切れない事象を排除てしまいがちである。そんな専門職との仕事は本当にストレスが多いんだけど、他人事ではないのではないだろうか。こういうところにも「したい支援」をしてしまう背景がある。

ぼくはそういう人たちを「趣味的な仕事」をする人たちだと呼んでいる。もっと下品な言い方もあるが、それはご想像に任せよう。

クライエントに求められている「されたい支援」に、専門性のバランスを崩しながらも食らいつくなかで、はじめて心療内科にドキドキしながら足を踏み入れたり、ペコペコしながら福祉事務所に同行したり…、クライエント・ファーストは私たち自身を成長させる。

また、バランスを崩した危機的状況の中で、自分よりも上手くこなしそうな専門家や支援機関に必然とリファーが必要になる状況で、ネットワーク構築の大切さや、フェイストゥフェイスの有り難みがわかるようになっていく。個人的にはこの循環(シェアするココロ)があれば、ぼくらのソーシャルセクターというのは、必然的に成長するものだと思うんだけど、これが案外出来ないんですね、私たちは。

よって、今日も相変わらず「したい支援」を、求められてもいないのに支援者は訳知り顔でしてしまい、相談者に苦痛を与えてしまっている。そして、相談者は無料だからしょうがないと、負のフィードバックをしないわけです。通常の消費行動ではあり得ない歪なパワーバランスが、ぼくらと相談者との間にあることさえ、想像できていないのです。

最近、某介護施設の職員の方から聞いた言葉で「資格よりも人格」というのがあって、まあ、ぼくは無資格支援者なのですが、肝に銘じたいと思います。以上、自戒も込めて。

ある生きづらさを抱えた若者が上司に言われた的を射た一言から考える居場所論

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「おまえは、自分が人にどう思われているかばかり気にしているが、相手が何を考えているかをまるで考えていない」

子供の頃から、気がつくとみんなの輪の外にいたり、不用意な発言で場の空気を乱し、それがケンカやイジメに発展する。

そんな経験を幼い頃からずっとしている人は、失敗を繰り返さないように自分を戒め、常に自分の言動を監視している。

そして、ある日何も言わないことが得策だと悟り、他者に怯えつつ、交流を経ってしまう。以下、このような方々を「生きづらさを抱えた人」と呼ぶ。

冒頭の言葉は、組織の中で他者に怯えつつ、不用意な発言を控えるあまり、コミュニケーションを極力取らない部下に放った上司の言葉である。


ぼくは、「あぁ、そうそう、それそれ」と合点がいってしまった。

生きづらさを抱えた若者たちは、一般の人たちが信頼関係の中でレベルを落としている「周囲への警戒」と「自己監視」のアンテナの感度をフルに上げていて、ワーキングメモリがいっぱいいっぱいになっている状態なのである。

メモリが不足しているので、相手が今何を考え、求めているのか、先回りして考える空き容量が頭になく、結果として気が利かないヤツや、自己中のレッテルを張られてしまう。

また、常に感度をフルにしていることで被害妄想をするようになったり、うつ病になってしまうことも多い。

このようなことからの回避行動として、ひきこもることを選択している生きづらさを抱えた人たちは一定数存在しているが、ぼくにはそれが、命を失わないための、ある種の生存戦略だと思われてならない。

生きづらさを抱えている人たちに必要なものは、警戒と監視の感度を落としても安心していられる自室以外の場=居場所である(それがオンライン空間でも一時的にはいいと思う)。

或いは、これらを学校に置き換えれば、教室以外、またはスクールカーストの外側の居場所がその役割を果たすと考えられ、学校内居場所事業が現在注目されているんだと思う。

このような場で、信頼できる大人に出会うことや、仲間ができることが、社会や他者に対する結果期待(自分が行動を起こした際に得られる成果への期待)を持ち上げ、結果的にワーキングメモリを解放することになる。

そうすると、他者を察し、労わる余裕ができ、社会的な存在である自分を取り戻したり、再構築したりできるのだと思う。

実はこのうような場は、生きづらさを抱えた人たちだけではなく、誰にとっても居心地の良い場所だったりする。

例えば、他人を批判しないなどがルールのワークショップに参加し、いつもより多くの発言ができたり、見ず知らずの人と打ち解けたりした経験をお持ちの方なら、きっと実感しているはずだ。

このような場の創設が、教育の多様化の根源にあって欲しいし、企業のダイバーシティのコンセプトになるべきだと思う。



この記事に支援者仲間たちが反応してくれて記事を書いてくれました。

「失敗」をするハードルって相当高いんだろうなぁ Nakagawa Shouhei
https://note.mu/shnakagawa/n/nd0910183b983

昔(20代前半の頃)、恩師に言われた一言「お前のはプライドじゃない、ただの自意識。そもそも“プライド”なんてものは、お前ぐらいの年で得られるものじゃない」



自分を気にしなくなるということ yoi_suimin
https://note.mu/yoi_suimin/n/na374a319db34

そういう人って、「自分が人にどう思われているかばかり気にしている」ので、誰のことも好きじゃないんだなあ、と思いました。で、誰のことも好きじゃないから、交友が広がらないんですよ。平たく言えば、友達ができない。

日本初の高等学校図書館内での居場所カフェ事業「ぴっかりカフェ」奮闘記〜支援機関の敷居の高さは目的の単一化。カモフラージュできる場でしか拾えないニーズを若者支援者は知らない〜

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NPO法人パノラマでは、日本初の高等学校図書館内での居場所カフェ事業「ぴっかりカフェ」の運営に取り組んでいます。誰も見たことのない現場で起きてる実態を、未消化かもしれませんが、出来るだけリアルタイムに近い形で全国の教育や支援関係者の皆さまに届け、一緒に消化していきたいと思い、いつも中途半端に終わるシリーズものとして、しばらく書いてみることにしました。

この事業はもともと、パーソナル・サポート・サービスの相談員として神奈川県立田奈高等学校での出張相談をぼくが担当することになった際に、個室の相談室ではなく図書館での相談を希望してはじまった、図書館での交流相談「田奈Pass」(現在はNPO法人ユースポート横濱が引き継ぎ運営継続中)がベースにあり、そこに大阪の西成高校で、(社)Officeドーナツトークがはじめた「となりカフェ」を大胆にハイブリットさせるというアイデアではじまったものです。

「ぴっかりカフェ」の俯瞰した社会的意義については、パノラマ理事の鈴木晶子のこちらの記事をお読みください。また、「田奈Pass」の交流相談については、「高校生の潜在的ニーズを顕在化させる学校図書館での交流相談 : 普通科課題集中校における実践的フィールドワーク」をご参照いただけると全体像が把握出来ると思います。

カモフラージュ出来る場

例えばこの間、カフェにヒアリング兼ボランティアに来た後輩支援者が、振り返りで「隅っこでドリンクももらわずにずっと本を読んでた生徒がいた。ああいう生徒にもっとリーチしないとダメなんじゃないか」ということを言っていました。

「う~む…」。まず、ここは図書館だから、隅でずっと本を読んでることは当たり前のことなんですよね。この話を途中まで「そっかそれはいけない」と思って聞いていた司書さんが「でもここって図書館だ!」ということに不意に気付き大笑いしていたんだけど、ここは居場所=フリースペースでもあるので話さない自由は尊重したいし、改めて言うと図書館というリソースを生徒から奪いたくはないんですよね。

でも、生徒はスタッフに話しかけられるのを、本を読むふり=カモフラージュして待っていたのかもしれないし、本当にただ本を読んでいただけなのかもしれない。単純な反省として「なにか飲み物はいらない?」と軽く声を掛ければよかったんですけど、ほっとかれる楽さ、でもそこに自然にいられる安心感ってあるじゃないですか、それが居場所なんじゃないかとぼくは思うわけです。だから、無闇に距離を縮めたくないんです。

サポステのような一般的な通所型の支援機関で、入口まで来たのに何も声を掛けなかったら、二度と会えないかもしれないけど、ぴっかりカフェなら、今日声を掛けなくても学校には来ているわけなので、確率が下がるかもしれないけどまた会えるし、引き継ぎをしておけば、後追いが必要な生徒か、ただ本を読みに来た生徒かも、だいたいわかります。

所属がある方の支援と、所属を失ってしまった方の支援の差ってこういうことですよね。でも、若者支援者たちは、所属を失ってしまった若者しか基本的には支援していないので、この泳がす感じが馴染まないんだと思います。近いとすると、どこかに「管理」がある生活保護受給者の方のケースワーカーからのリファーに近いと思います。

この辺が、一般の支援機関のアプローチとは変わる部分というか、変えれる部分であり、ぼくからすれば可能性なんですよね。ここを潰すような動きは生徒の居心地を考えてもしたくないんです。これが空き教室に設置された居場所や、相談だけが目的の他の支援スタイルとの決定的な違いであり、ぴっかりカフェの強みはここにあると思うんですよね。

支援機関の敷居の高さは目的の単一化

支援機関というのは、一般的には目的が相談に単一化していて、入り口をくぐった者は皆、なんらかの相談をする困ったことを抱えている人ということになります。だから、支援機関を見に来たけど、中に入れずに帰るということが支援者の知らないところで起こるわけです。

ぴっかりカフェのような既存の機能(図書館)に新たな機能を加えるパラサイト型の相談窓口には、場自体に複数の目的があり、入り口をくぐっても目的は人それぞれでバレないんです。これって、本当に大事なことなのに、支援する側の我々はこのことに本当に鈍感で(ネーミングにそれが顕著かも、そんな名前の場所、団体には行きたくない!)、これらは強者の理論で出来上がったものだと思います。

例えば、入ったら絶対店員が近づいて来て、洋服を勧められ買わされるだろうなと思うショップには入り難いですよね? 何も買わなくてもいい、店員も近づいて来ない。でも、必要な情報があればすぐに聞くことが出来るショップ。そんなユニクロみたいなショップ、それがぴっかりカフェじゃないかと思います。

要するに支援ニーズをカモフラージュする“言い訳” を作ることが「本を読む」ことでできるわけです。これは、なんらかの困ったことを抱え、傷ついたナーバスな感情や、大人への不信感から、心情を打ち明けるに相応しい相談員なのかを吟味する時間が欲しい生徒にとっては、敷居の低い楽チンさがあるわけです。

これって、ぼくが個室ではなく図書館を希望した根源的な理由に結局は帰結するんですよね。

まあ、案の定あんまりまとまりませんが、次回は、いろいろな形態にカモフラージュしてスタッフに近づいて来ている生徒と、そこから相談のフェーズに移行させるなんとなくなくな方法論について語ってみたい思います。
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