2014年05月

変わるべきは支援者ではないか?〜ひきこもり支援の限界とこれからのひきこもり支援について〜

第一期ひきこもり支援の終焉

ひきこもりの状態にある方が長期高齢化している実態が顕在化するなか、「従来型のひきこもり支援の限界」ということが言われはじめ、支援に深く携わって来た一人の支援者として、とても重く受け止め、真摯にこれからの支援について、僕なりにずっと考えています。

限界と言われている現在の代表的な支援は、①支援者が世帯に訪問し、ひきこもりの若者と関係を構築して支援機関に誘導するスタイルか、②親が子供を説得して支援機関に連れてくるスタイルのどちらかで行われています(稀に自分から出てくる方もいます)。

これはよく、発見→誘導→参加(支援)→出口(就労)→定着(職場)と整理されているものですが、誘導の形態に①と②があるというと分かり易いでしょう。

また、地域若者サポート・ステーションは、①でも②でもなく、自分で参加してくる方を対象としており、対人不安が強く外出に困難さを持つひきこもり支援と、サポステのメインターゲットである対人不安が少ない就労意欲のあるニート層への支援がまるで別物だということがわかります。

参加の形態には、③自力で支援機関に通う通所型。④環境を変えないと動き出せない人のための宿泊型があります。一般的には、生活リズムの改善や人慣れなどから、仕事に就くための就労支援が行われます。

現状のスタイルは、これでひとつの有効な手法であり、これ自体を否定する必要はないと思います。

しかし、この支援を受けられるひきこもり状態の方が非常に少ないために限界ということが言われているのです。言ってみれば個人的な課題は解決できたけど、社会的な課題は解決できなかった。ここに「限界がある」と指摘がされているわけです。ではその限界とはなんでしょう?

「従来型のひきこもり支援の限界」とはなにが限界なのか?

「従来型のひきこもり支援の限界」の何が限界なのか、実は僕も直接言及さているものを見たことがないような気がしますので、ここに限界要因となりそうなものを抽出してみたいと思います。

■ 「家から出る」ことが大前提である。(①②)
→家を出れない人、出たくない人はこの時点で支援者に対する拒絶反応が起こる。
→拒絶反応が事件や事故につながるケースもあり、このネガティブ予測が親の支援拒否になる。

■支援機関がとても少なく一般的には民間の運営である。
→経済的負担が大きい(受けれる人が限定的)。
→精神的負担が大きい(受けれる人が限定的)。
横浜市の居場所事業「地域ユースプラザ」は先駆的な取り組みだと思う。

■民生員等がひきこもり状態を把握していても支援の場がないのでアプローチできない。
→個人情報の壁もあり、SOSが出ない限り積極的な関わりを持つことが出来ない。
→仮にアプローチしても支援の場がなく手詰まりとなるため、静観せざるを得ない。
参考過去エントリー「ひきこもり ~みんなが知ってる隠しごと~」

■ 支援が家以外の場所でしか行われていない。(③④)
→そのため、必然的に押し出しアプローチになり支援者とそれを希望する親は拒否される。
→家を出ることは重要だが「家から出られるようになる」支援が圧倒的に不足している。

■ 「働かざるもの食うべからず」が支援の原則である。
→「就労」は外に出れる気がしない人にはステージが違い過ぎて参加できない。
→働かずには食える仕組みがないのでしょうがないが、その最終形の支援につながるまでの迂回路的な支援が圧倒的に不足している。

このように、「支援=家の外に出で働けるようになる」という、当事者からすれば相当に壮大なはずの物語の紡ぎ方が手荒いというか、どこか一足飛びになっている。言ってみれば支援者本意になってて、当事者本意になっていないところに、限界性があったのだと思います。

変わるべきは支援者ではないか?

私は過去に、何度かひきこもったお子さんを持つ親の会で講演をさせていただいたことがあります。懇談会などで保護者の方々とお話をすると、“自分たちの手法(アウトリーチ=家庭訪問)でこの人たちを動かすことはできないだろう”と感じたことを思い出します。

この記憶は、すでにこの時点で“支援の限界”が見えていたということを僕に突きつけます。

しかし、正直に言うと、その当時、“個人的な課題”は解決できていたので、変わるのは親であり子どもだと明確に思っていました。これは今思うと「正義感と言う名の暴力」的な思考で、自分たちを正当化することで支援の限界性を覆い隠していたんだと思います。

当然、日本の社会構造や経済の問題とも切り離せいないのですが、結局、これでは社会的課題は解決しなかったわけです。

7つの習慣にある「インサイド・アウト」のように、外側のものを変えるために自分の内側を変えるというパラダイムシフトを私たち支援者が起こさなければ、この限界は超えられないと思います。

今、変わるべきは支援者なんだ。僕の中でそういうスイッチが時間をかけて入った感じがしています。

国策としても、費用対効果の“効果”を非納税者が納税者になるということを短期的に求める就労支援だけでは、家と職場を就労支援で直結できる一部のストレイターの若者だけが対象となり、利用者の年齢制限と併せ、限界が生じ、限定的な支援になっているというのが現状です。

ただ、支援のきめを細かくする=工数が増える=コストがかかる。これが現実です。ひきこもり支援の限界とは、このコストを誰が負担するのかという現実から目を背け、先送りしてきた結果であるというのが、もっとも冷静な検証かもしれません。

結局、カネという部分で手詰まりになるのですが、ここで思考を止めずに考え続けるめために、SROI(社会的投資利益率)のような、費用対効果をもっとソーシャルな視点で捉えた成果や評価を求めたいと思います。

第二期ひきこもり支援とは、どのようなものか?

僕自身にまだまだ迷いや自己矛盾的な葛藤があります。しかし、限界を突きつけられて黙っていられないというか、反論ではなく反省と検証から新たな支援(←支援という言葉自体に限界が来ているという予感もあります)についての模索をはじめなければならないと、勝手に強い使命感を感じています。

ということで、最後にこれからのひきこもり支援を考える時、僕が重要なキーワードになると考えている、ひきこもり状態の方のQOLを上げるというアプローチについて書いて締め括りたいと思います。

QOLとはつまり「Quality Of Life=人生の内容の質や社会的にみた生活の質」。このQOLを自立の前に先付けするのか、後付けして付随してくるものと考えるのか、ということは、もの凄い重要なことなのではないでしょうか。

これまでの支援は「家に閉じこもっていては、QOLが上がらないから家から出よう。外に出て働けばきっと友だちも出来て、人生が今よりも充実するよ」というQOL後付けのアプローチだったと思うんです。しかし、これではひきこもりの支援は解決しませんでした。

「誰も誉めてくれない」し「誰も励ましてくれない」状態で人はどう頑張るのでしょうか?

ひきこもりという極限的な孤立状態では、人は努力することができない。努力する理由が見つけられないと言った方が的を射ているかもしれません。

「働くための準備」で絶対にしなければならないことは、この誉めてくれる人や励ましてくれる人、まさに物語の登場人物を増やし、エピソードを増やすという、物語のきめを細かくする作業なのです。

僕は、このことを「文化的資本」と「社会関係資本」をどのように獲得するか、という「狙い」として支援を企画するべきだと考えています。

「経済的資本」の獲得は最後でいい。それなのにこれまでの支援は、この国を支えるレギュラーメンバー入りを目指した経済的な自立を前提とした就労支援でしかなかった。ここに当事者たちとのボタンの掛け違いがずっとあったのではないでしょうか?

QOLを獲得する場としてのサードプレイス

家の中でひきこもっていながら一定程度までQOLを上げること。これが、圧倒的に不足している「家から出られるようになる」支援だと僕は考えています。ひきこもり状態の方のQOLが上がることによって、社会に対する期待感や安心感、自分自身に対する期待感を持てるようになる。

これがひとつの解決の道であり、支援の限界とは、ここを無視していた結果なのではないかというのが、僕が行き着いた考えです。では、QOLはどのよう場で上がるのでしょうか?

社会学者のレイ・オルデンバーグは、「都市生活者は家(第一の居場所=ファーストプレイス)と職場(第二の居場所=セカンドプレイス)以外の第三の居場所であるサードプレイスを持つことで豊かな生活ができる」と言っています。「豊かな生活」とは即ちQOLの高い生活です。

オルデンバーグの理論に思いを馳せると、これまでのひきこもりの支援は、ファーストプレイス(家)からできるだけダイレクトにセカンドプレイス(職場)につなげ、サードプレイスという考えを蔑ろにしていたということに気付きます。

つまり第一期ひきこもり支援は「1→2」を狙ったものでした。この限界を超えるための、これからの支援はファーストプレイスとセカンドプレイスの間にサードプレイスをかます。つまり「1→3→2」とする。そして、サードプレイスで獲得するべきは、文化資本と社会関係資本の獲得によるQOLの向上。現代的な感覚では、フェイスブック等のSNSもサードプレイスとして考えられるでしょう。

例えば「ひきこもりLIFEの充実を目指す」自宅完結型サービス

最後に宣伝を持って来るという手法はとても嫌われるでしょう。前置きが長ければ長いほど、徒労感は半端ないでしょうね。がしかし、ここは提案として、敢えさせていただきます。

このような発想から、シェアするココロでは、「ひきこもりLIFEの充実を目指す」をコンセプトにデリバリー・プロジェクトというものを開始しました。

「ひきこもりLIFEが充実しちゃったら家から出て来なくなるじゃないか」と思ったあなた。そこに限界があったのですよ。

これで限界が超えれるとは思っていません。コスト負担の面等、まだまだ課題はあると思います。例えば、このサービスの半額を税金で賄うとした場合、市民のコンセンサスが得ることはまだまだ難しいでしょうし、行政パートナーも見つけにくいと思います。

しかし、ここに書いてある現段階での仮設を、これからのひきこもり支援のベースとして僕は考え、推し進めていきます。これを叩き台として、どんどん反論してくれてかまわないです。とにかく議論を進めたいし、アクションを起こさなければならない時期に来ていると思います。

その第一段は、僕が講師を務める「Delivery Guitar Lesson」。是非、PDFをお読み下さい。今後、ジワジワと講師を増やしラインナップを充実させて行きたいと思います。

このブログはクローズのコメントも受け付けていますので、今後のブラッシュアップのためにも、是非、ひきこもり当事者の皆さんの意見をお聞かせ下さい。長文にお付き合い下さり、ありがとうございました。
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生活保護の「補足性の原理」は自立を助長しているのだろうか?

補足性の原理とは?

厚生労働省のHPには、生活保護の補足性の原理の基本的な考え方が以下のように示されています。

保護は、生活に困窮する者が、その利用し得る資産、能力その他あらゆるものを、その最低限度の生活の維持のために活用することを要件として行われる。
(生活保護法第4条第1項)


これは、活用できるものすべてを活用した上で生活が成り立たない場合に限り生活保護の申請を認めるというもの。

「扶養家族に扶養してもらえばなんとかなるじゃないか」という発想もここに根っこがあります。

その扶養の問題は今日は置いておいて、Wikipediaに書いてある『生活保護の補足性の原理』の記述を見ていて、つい悩ましいことを考えてしまったので、つらっと書いてみたいと思います。

(前略)売れるかどうか分からない絵を描くことや選挙活動や宗教活動や発明研究等に没頭することなどは少なくとも現時点の自分の経済生活に役立っているとはいえないため、補足性の要件には該当しない。


こういう人はその活動をやめてちゃんと働きなさいね、というこです。これは確かに道理にかなっていると思う。

毎日売れないマンガを描き続け、子どもがひもじい思いをしている友人がいたら、「おまえさ、そんな売れないマンガ描いてないで少しはまじめに働けよ」と、稼げない仕事している自分を棚に上げて言うでしょう。

しかし、人の人生は十人十色。様々な事情を抱え、道理というもので簡単に割り切れるような人生を誰もが生きているわけではないのです。

ここに悩ましいケース(架空)を紹介します。このケース自体にスポットを当てたいわけではないので、なんで働けないのか等は省力します。

(以下架空)一人暮らしのいわゆるひきこもり状態の高橋さん(35歳男性)。外出することが困難で、少ない親の仕送りで、近所のスーパーで辛うじて食材を買って生活をしている。

親が高齢でこれ以上の仕送りは続けられないと言われており、親の仕送りが止まったら生活保護を申請しようと思っている。

高橋さんはギターを弾くことが趣味で、若い頃に買ったビンテージ・ギターと、アンプやエフェクター等を所有している。

売ればちょっとしたお金が得られそうだが、ひと月もすればなくなってしまうくらいにしかならないでしょう。

生活保護受給で失ってしまう大切なもの

(物語に汎用性を持たせたいので、ここからはギターを「大切なもの」とさせていただきます)

補足性の原理でいえば、高橋さんは大切なものを処分しなければなりません。

しかし、高橋さんが大切なものを売って得られる金銭と、大切なものを失う精神的損失を天秤に掛けた場合、間違いなく失ったものの方が重く大きい。

高橋さん的には、これからしばらくの間、得られるであろう保護費よりもきっと大きなものだと思います。

大切なものを失いたくないから生活保護の受給申請をしないという方は実はとても多く、時にはその失いたくないものがプライドだったりもします。

高橋さんにとってのギター=大切なものとは、人としての「尊厳」だと思うんです。

生活保護の補足性の原理により失う大切なものとは尊厳なのではないか?これが僕がこのブログで悩ましく考えていることです。

そして、大切なものを持ち、人としての尊厳を奪わない方が、自立の可能生が上がるとは言えないのでしょうか?

ここで押さえておきたいことは、生活保護とはそもそも自立を助長することを目的とする制度だということです。

今回のブログの悩ましい動機とは、「補足性の原理」が「自立の助長」を時として妨げているということがあるのではないか?ということです。

これを運用するケースワーカーさんたちもきっと大変でしょうね。

また、横浜パーソナル・サポート・サービス「生活・しごと・わかもの相談室」で、生活困窮者支援に携わって実感してしたことは、すべてを失ってからの支援というものは、ゼロからではなくマイナスからだということです。このことをもっと知ってほしいと思います。
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