2013年12月

社会全体が想像力を失いイマジンできてない。「プル型福祉」と「プッシュ型福祉」

とある高校の先生同士の会話。

「でも、あいつ(生徒)んちはしっかりしてるから安心できるよな」

「あぁ、それは言えてますね」

横で聞いていた僕は、その“しっかり”が、
経済的な基盤の上に成り立つのか、
貧乏だろうがしっかりしている家はしっかりしているのか?

気持ち的には後者を支持しながら、
学習経験的に前者だろうなと気になって質問してみました。

「その“しっかり”っていうのは世帯の経済状況と関係していると感じますか?」

先生は苦笑まじりに言葉を選びながら答えてくれました。

「すべてじゃないけど関係してますねえ。
 やっぱり経済的に安定している家がしっかりしてますよ」

この“しっかり”ってなんだろうと改めて考えると、
例えば、朝は親がご飯を作ってくれて、規則正しい生活リズムや、
子どもがぐうたらしてたらケツを引っ叩いてとか。

例えば、家の中が一定程度、清潔に保たれていて、
クリスマスに朝起きると枕元にプレゼントが置いてあり、
お正月にはお餅を食べてみたいな。

文化的な営みがあることを“しっかり”というんだと思うわけです。

家が“しっかり”してないと、
社会関係から無意識のうちに排除される行動を取ってしまい、
学校(セカンドプレイス)という所属を中退という形で失ってしまう…。

子どもたちにとって、地域コミュニティや社会(サードプレイス)の入り口は、
家(ファーストプレイス)か、学校(セカンドプレイス)しかないと思う。

その入り口のひとつである学校を失い、
社会関係資本が脆弱だろうと想像する“しっかり”していない世帯を足場に、
彼らは中卒というステータスで、
どうやってこの冷え込んだ日本社会をサバイバルしていくんだろう?

と僕は考え込んでしまったわけだけど、
生徒もその親も、そういう想像力を持ち合わせていないのが現実だったりするんです。
三者面談で中退リスクを先生が伝えても、
親も子も我関せずだということが少なからずあるといいます。

これこそが深刻な文化的資本の欠如だと痛感し、
ここにも貧困の連鎖かと、暗澹とした気持ちになってしまいました…。

想像してみて欲しい(イマジン)。

中退した彼らが若さを失い、
サバイバルできなくなって駆け込んだ福祉事務所で、
生活保護の受給に繋がった場合、それを支えるのが誰かを?

それは納税者である私たち。

想像してみて欲しい(イマジン)。

生活に行き詰まった彼らがひったくりをした場合、その被害者が誰かを?

それがあなたの奥さんや恋人かもしれない。

彼らが若いうちに所属を失いキャリアパスを失った際のリスクが
どれだけのものかを想像できない彼らと同じように、
ここのイコールが想像として僕らも繋がっていないのではないでしょうか?

ジョン・レノン好きの僕としては「イマジンできてない」と思うわけですよ。

この社会全体が想像力を失いイマジンできてない。
だから、本当に困る前の今だからこそできる予防的支援や、
当たり前のような挨拶や、ちょっとした声掛けなど、
今やらなければならないことにフォーカスされていないと日々感じるわけです。

僕らからこの想像力を奪ってるものはなんなんだろう?

隣に住む人がどんな人かも想像しない僕らに、
そんなことが想像できるわけないじゃんかよ。
というシニカル自分が頭の片隅で冷笑していますが、
この問いを真っ向から考えることこそがイマジンなわけです。

何かの本で養老先生が水洗便所を汲み取り式に戻すべきだ的な話しを書いてました。
この人は何を言い出すんだと思ったけど、
自分が排泄した臭いものを水に流し、なかったことにしてしまう。
臭いものに蓋をして思考が停止してしまう弊害が書かれていたと思う(うろ覚え)。

そう、僕らは面倒なことを先送りし続け、
ついには想像すらしなくなってしまったんだと思う。
きっと一億総中流社会とか大学全入時代というまやかしをキーワードに。

少し話が飛ぶようだけど、僕は最近、営業スタイルを表す
プル型とプッシュ型という言葉で、
新しい福祉のスタイルを模索していきたい考えてます。

「プッシュ型福祉」というのは、
困っている人を見つけて福祉サービスを提供するスタイルで、
「プル型福祉」というのは、窓口で困っている人が来るのを待っているだけ。

「プル型福祉」は隠れた福祉と言ってもいいかもしれないですが、
生活保護のことを正しく理解している国民がほとんどいなさそうなこの国は、
窓口やサービスを隠している「プル型福祉」の国だと思うんです。

それは日本の生活保護の補足率が20%に満たないことで十分説明がつくでしょう。

生活保護を利用することが恥ずかしいことで、
生活が困窮した場合は家族や親族が責任を持つべきであるとか、
他人の力を借りることが恥であるかのような刷り込みのようなものを
政治家が率先して行い、福祉事務所の窓口を遠ざけています。

これは「プル型福祉」ではなく
閉ざされた「クローズ型福祉」と言った方がいいかもしれませんね。

生活保護受給者はいない、かのような社会ってどうなんだろう?
日夜、活動している福祉事務所のケースワーカーに、
町で出会うことがない日常ってどういうことなんだろう?
それはプライバシーが保たれた安心な社会なんだろうか?
そんなことに関係なく支え合える社会の方が安心社会じゃないんだろうか?

こんなところに僕らの想像力を奪ってるものの正体があるのではないだろうか。

僕は「プッシュ型福祉」の実現は難しいと思っているので、
プッシュとプルの間、或いはオルタナティブなスタイルを模索し、
イマジニストとして提案していきたいと思います。
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学校連携で教師から支援者にキラーパスが通る3つのポイント

課題集中校と呼ばれる高校での相談も今年で3年目。
上手く生徒と関わることができて、
1年生の時に中退しそうなだった子たちが今は2年生で、
「石井さん、あいつ今絶好調ですよ!」なんて先生にご報告を頂いたり。

3年のはじめに「別に話すことないから」とふてくされてた生徒が、
話し出したら泣き出して…。そんな生徒が、
「石井さん、あの◯◯が内定取ったよ!」なんて話になってたり。

ようやく、その場の収束だけではない、
「成果」を感じられるようになってきています。

しかし、その一方では残念ながらどうにもならなかったケースもやはりあります。

そんな生徒の顔を思い浮かべると、
僕の想いとしては「もう少し早く出逢えてたらなあ」なのです。
もちろん、早く会えればどうにかできるってものじゃないのですが。

なんとかなった生徒を思い返していくと、
2年生のいいタイミングで出逢えて、3年生で結果出てるとか、
単位等まだ猶予が残ってるうちに会えてんですよね。

要するに担任からのキラーパスが出ているんです。

適材適所にボール(ケース)が回っていく感じという意味で、
僕はよくこのキラーパスという言葉を現場で使っています。

そして、この3年間でわかったのは、
それらのキラーパスが学校内で通るには、
以下の3つの条件が揃ってないとダメだということです。

①担任がしっかり生徒を見てコミュニケーションが取れていること
②校内で相談の仕組みが定着していること。
③担任(学校)と僕との信頼関係があること。

もう少し選手・相談員=教師、生徒=ボールというサッカーのメタファーで考えるなら、
①選手はボールがどれくらいのスピードでどの方向に転がっているのかを見極め、
そのボールをトラップした後に、
②パスが出せる位置に選手がいるフォーメーションができており、
③あいつならこれくらいのパスは受け止めてくれるだろうという信頼の元に、
ちょっと裏を突くようなパスを出し、それが見事に通る。

この時に実は大切なのが、サッカー日本代表の遠藤のような選手。
この選手が学校の中のフォーメーションを掌握していて、
一回バックパスを出して体制を立て直したり、
ゴリ押しの縦パスを出したりしているんですよね。

サッカー好きの方には拙い例えでイライラしたかもれませんね、ごめんなさいw

今日このブログで外部支援者として一番伝えたいことは②③についてです。

学校という組織の中に食い込んで、②の仕組みの一部になるということと、
そして③の信頼関係を築くことは一朝一夕には築けないということです。

僕もようやく3年、「やっとここまで来たか」という振り返る感じと、
「まだまだこれしきかあ」という見上げる山の中腹にいるような感じがしています。

もっとじっくり腰を据えて、最低5年、
学校の文化に溶け込むまで行くなら10年は出来る事業にしなくてはいけないと、
つくづく思う今日このごろです。

しかし、高校にはこのような予算はありません。
例えば地域若者サポートステーションの学校連携事業等で、
他力本願でしかこれを果たしようがないというのが実情です。

サポステの学校連携事業が危うい、いやいやサポステ自体が危ういぞ、
というまことしやかな噂に翻弄されるのではなく、
学校自体が予算を持ち、
学校が選んだ法人と学校が単年度ではない契約を
結べるようにならなくてはならないのではないでしょうか?
(日本は公的な教育費の支出がOECD中最下位です)

教育という国家百年の計があまりにも軽視されているなと、
外部から学校に入らせてもらってる身として冷々しております。
もっと教育を大切に、生徒ファーストで考えましょうよ。
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