2013年02月

自分のタイミングと世間のタイミングのズレを、 アジャストのできなかった若者たち。

自分のタイミングと世間のタイミングのズレを、
アジャストのできなかった若者たち。


まあ、大学の就職活動を指して言っているんだけど。
人の育ちって、ほんと人それぞれだと思うんだ。

自分のタイミング
自分のタイミングっていうのは、
「ある行動の習得に必要な条件(興味・知識・能力)が用意されるタイミング」
と言い換えることができると思うんだけど。

キャリアカウンセラーは「レディネス」「働くための準備」という意味で使うけど、
大学生のレディネスが、みんな3年の夏に整うなんてことはないわけで。

みんな自分のタイミングではなく、
日本の産業界が決めた雇用慣習に則って、
レディネスが整っていようが、いまいが
その時期にリクルートスーツの袖に腕を通す。

僕は学校の、夏休みや卒業式などの起承転結の分かりやすさは、
人の成長を助けるんだろうな、とは思っていて、
長野にあるサムガクことNPO法人スクオーラ今人侍学園は、
まさにその学校の持つ良質なエッセンスを抽出して運営されている。

ただ、普通の学校と決定的には違う点がある。

卒業のタイミングが自分のタイミングなのだ。

卒業=社会に出たくてもスタッフが早いと思ったら、
課題を明確にした上で留年?するみたいだし、
本人がまだ卒業したくなくても、
出るべきだとスタッフが判断がすれば押し出しがあるだろうから、
正確には自分のタイミングではないかもしれないけど、
スタッフと本人がレディネスについて話し合い、
合意をすれば卒業式を迎え、社会に羽ばたいていく。

去年、たった一人の卒業式に出席させていただいたが、
とても感動的な式だった。

トコロテン式に押し出すわけではないので、
卒業する生徒がいない年もあるという。

何が言いたいかというと、
支援と社会、或いは教育と社会の接続というのは、
非常にデリケートであるということ。

僕は起承転結に則り、卒業が接続のタイミングでいいと思うんだけど、
特に、今日のような混迷を極める社会情勢下では、
自分のタイミングで出るべき人たちがいるんじゃないかな?
(大学を留年し続けるのではなく、新卒一括採用じゃなくなるといいかもとか)

そういう「自分のタイミング」で行きたい人を
尊重できる雇用慣習だとかになってないと、
その接続点が命取りになるぞ、ということを、改めて強く思った。

1月5日に書いて多くの方に読んでいただけた以下のブログを思い出してほしい。
「若いというだけでハイリスクな時代」 〜20〜24歳の自殺率の増加が凄まじい〜
(URL引っ張るついでにRTしたら、また多くの方が共感していただいてるようです。多謝!)
自殺率

赤字で示している20〜24歳のライフイベントは「就活」である。

個人的な解釈として、以下の様なことを想像した。

自分のタイミングと世間のタイミングのズレをアジャストできなかった若者たちが、
自らの命を断っている、或いは、社会から隔絶された生活を選んだのではないか。


僕らがアンケートを取った大卒無業状態の若者たちは、
このサバイバルを抜けて生き残った若者たちなのではないか、
という見方をしみると、彼らのサバイバルの手段は何だったのか?

アンケートの中の「就活応募社数」を見ると、以下のような結果になっている。
0社:105名(40.4%)
1〜5社:73人(28.1%)
6〜10社:32人(12.3%)
20〜50社:27人(10.4%)
50社以上:6人(2.3%)

彼らの取った手段とは、就活をしなかった、ということなのではないか?
そんなことを15人の逐語録から考えた。

●そしてどうすればアジャストできたのか?
●そのための仕組みとして、大学はどのような機能を持つべきか?
●アジャストできなかった若者たちにどうやってセーフティをネットを張るべきか?
●その情報の伝達手段、導線は?

この結果を下に、このような考察を深めていきたいと思う。

オフィシャルなものは、3月末にウェブに公開予定です。
全国のご協力くださったサポステの皆さん、
この場をかりて、お礼をさせていただきます。
本当にお忙しい中ご協力下さり、誠にありがとうございました。
引き続き、よろしくお願い致します。
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先生のモーニングコールは、学校が第4の傘としていかに機能できるかという試みなのだ

NHKの「おはよう日本」で、
首都圏ネットワークで放映されたバイターンが再放送された。
その時の放送の補足はこちら

前回の補足に書にも書かせてもらったことだけど、
やはりTwitterを見ていたら、
以下のようなツイートがあった。

さっきNHKでバイターンについてやってたが、一番の驚きは教員が複数の生徒にモーニングコールをかけていた点だな。「朝起きられません。でも就職したいです」とか社会をナメきっている。出席日数不足で留年したり、高卒ニートを体験して、人生見つめなおした方がいい。


そう思うのもごもっともだなと思う。
うちの子(高1)に先生からモーニングコールが来たら、
僕も息子に、このツイートと同じ観点から説教をするだろう。
その光景はある意味で中流世帯の平和な光景だろう。

でも、この日本はもう1億総中流ではないのだ。

湯浅誠さんがよく人は「3つの傘」で守られているという話をしている。
1.国家の傘 2.企業の傘 3.世帯の傘 である。
これは1億総中流だったころ(本当にそうだったのか?)のことだろう。

世帯が生活困窮状態になるということは、
まずは企業の傘が破れ、すぐに世帯の傘も破れ、
国家の傘、即ち社会保障で守られることになる。

世帯の傘が破れた世帯の子どもたちのことを考えてみてほしい。

1億総中流。いい加減、この幻想から抜けだして、
中流ではない世帯(あえて下流という言葉は使いたくない)が抱えるリスクや、
そのサポートについて考えをめぐらしてほしい。

先生のモーニングコールは、
学校が第4の傘としていかに機能できるかという試みだと思う。
そしてバイターンもしかりだ。

この国は生活保護世帯の子どもたちの自立をどのように考え、 どのような方法で自立させようとしているのか?

ソーシャルインクルージョン(social inclusion)とは、

「全ての人々を孤独や孤立、排除や摩擦から援護し、健康で文化的な生活の実現につなげるよう、社会の構成員として包み支え合う」という理念である。


素晴らしい理念である。
弊社のミッションは、この社会的包摂に如何に貢献するかである。
と言い切っても過言ではない。

しかしこれは、本当に容易ではない。

人類の創りあげた理想郷、ユートピアなのではないか…。
それを個人の頑張りだけで、できるはずがない。

つくづく、そして沁々と日々感じている…。

孤立や孤独は、個人だけの問題ではなく世帯にもある。

どんなに個人を包摂的に支援をしても、
その方が帰属する世帯が社会的に排除されていたら、
その支援が実を結ぶことは難しい。

これは僕がずっと感じてきていることで、
だからこそ、世帯を丸ごと引き受けようという、
パーソナル・サポート・サービスという取り組みに、
僕は強く共感した。

世帯というのは、家族がいるから、
孤独ではないわけだけど、
世帯ごと孤立しているという状況は珍しくないし、

孤立した個人がひとつ屋根の下で、
孤立したままバラバラに暮らしていることもまた、
珍しくない。

生活保護を受給していれば、
社会に包摂されているのかといえば、
それは全然違うと思う。

タバコ等の嗜好品を嗜むことができずに、
レジャーを楽しめばチクられたりしている間は、
文化的で健康な生活なんてあり得ない。

お金はあるけど友だちがいない人がるように、
経済的援助は、
社会関係資本を構築する足掛かりにはなるかもしれないけど、
孤独や孤立を解決するわけではないのだ。

保護者が何らかの困難を抱え、孤立し、
その困難さゆえに養育が難しい世帯がある。

そんな地盤がゆるい生活保護世帯の子どもが仮に高校生とした場合、
この若者を社会的包摂しようと思ったら、
どれぐらいの人的措置が必要かを考えてみたい。

まず、公的に関わりを持てるのは、
世帯を支えるケースワーカー(CW)。
しかしCWが世帯の子どもたちと接見し、
何らかの、教育的な役割を担うことはほとんどない。

次に若者が通う高校の教師が考えられる。
しかし、教師は若者が生活保護世帯の子であることを知ることは、
イレギュラーとしてしか知るよしはない。

よしんば知ったとしよう。
しかし生活保護の仕組み自体の知識もない教師に何ができるだろう?
(しっかり勉強されている方もいますが)
学校内でマメな声掛けで若者をエンパワメントし、
なんとか卒業させ、最低限のキャリアパスとして高卒資格を持たせる。
それぐらいだろう。

中退率の高い生保世帯の高校生を、
ちゃんと卒業させただけでも素晴らしい先生であり、高校といえるが、
それだけで社会的包摂が達成するほど、
この社会は甘くはない。

同じく校内で、スクールカウンセラーが、
或いは養護の先生が事情を知り、本人の話を聞き、
担任に伝え、学年会に若者のケースがかけられたとしよう。
それでもどう卒業させるか、という域を出ることはないだろう。

若者の現状を改めて見てみよう。
孤独や孤立、排除や摩擦
という状況には陥っていないようだ。
しかし、健康で文化的な生活の実現は難しそうであり、
社会の構成員として包み支え合う構成員にはまだなっていない。

このまま行って、
この国の構成員のレギュラーメンバーになれるのだろうか?

恐らく、孤独や孤立、排除や摩擦という流れに乗ることは目に見えている。

ここでNPO法人職員をぶつけてみよう。
この職員はサポステの学校連携事業で学校に相談員として派遣されてて、
担任から若者のことを相談され、CWと連絡を取りあうまでになった。

若者から話しを聴くと、
どうやらボトルネックはこの世帯の父親にあることがわかった。
しかし、このサポステ職員が家庭訪問して、
父親に指導的な立場に立つことはないだろう。

CWも若者の置かれている状況をサポステ職員から聞き、
父に指導をするものの、
「わかりました」という父の話を鵜呑みにすることしかできない…。

若者はサポステ職員の勧めで、
アルバイトをはじめてみることにした。
アルバイト先の店長はすぐに、
若者に何かが欠落していることを感じ若者と面談し、
すべてを知った。

人情味に厚い店長は、あの手この手で若者に迫った。
しかし若者が変化することはなく、
若者はクビになる前に来なくなってしまった。

そうこうするうちに、
若者は出席日数が足りず、高校を退学になってしまった…。
NPO職員が「なにかあったらサポステに来いよ」と言ったが、
サポステに現れることはなかった。

そして誰も包摂してくれる人がいなくなった若者は、
自暴自棄になって…。

これはよくある話。

この物語に救世主を登場させるとしたらそれは誰だろう?

これが想像できなければ、
冒頭で引用した社会的包摂は夢物語であり、
人類が想像した理想郷ということになる。

この物語に救世主を登場させるとしたらそれは誰だろう?

僕は誰ではなく、この国がするべきことだと思う。
誰かが何かしたって、24時間蠢く生活という怪物に立ち向かうことはできない。
だから国なんだ。

どうやらこの国は、不正受給の生活保護者を取り締まる方法を考えたらしい。
(それはいいことだと思う)
どうやらこの国は、生活保護世帯の保護費引き下げを決めようとしているらしい。
(それはどうだろうと思う)

では、この国は生活保護世帯の子どもたちの自立をどう考え、
どのような方法で自立させようとしているのか?


内定が取れなければ使えない、普通自動車免許取得費用とか?
就職活動を行うためのスーツを購入するための5万円だとか?

これは実質ノーアイデアなんだと思う。

そもそも高校生が内定を取るためには、
十分なアルバイト経験か専門的な知識が必要とせれているのが、
今の日本の労働市場の現実だ。

それがこの若者が8万稼いだら6万を収入認定で取られ、
残りに2万の内1万は携帯代で、残りの1万は昼飯代となる。
そんなことでバイトなんかするわけがないし、
自分が生まれた世帯(世界)を呪うだろう。

社会的包摂=ソーシャルインクルージョンが、
夢物語で終わらないために、僕は何かがしたいし、
それを成し遂げられそうな、アイデアがある。

どうかバイターンにチャンスを与えてほしい。
そして、何とかしそのチャンスをつかみたい。

そのためには、もう未成年の教育義務は保護者にあるということをやめよう。
養育というものは、人が生まれ持った本能でできると思うのをやめよう。

その内定を偶然から必然に変える5つの力

今日は、いつも相談員として行ってる高校の、
生徒たちの内定式に出席してきた。

その、某老人介護施設の内定式は、
毎年いろいろな人が無茶ぶりされて祝辞を述べるんだけど、
「なんにも用意してないっすよ〜」とか、
「油断してたなあ」とか言いながら、皆さんさすがの大人な祝辞。

こりゃヤバイ!(汗)

僕も無茶ぶりに備え、一応これを話そうということを考えたんだけど、
結局ふられなかったのでここに書くw。

みんなおめでとう!

君たちは、内定をもらったことや、
ここで働くことを、なんだか偶然だと思ってるかもしれないけど、
それは偶然じゃないんだぜ、必然なんだ。

いや、必然にならなきゃダメなんだ。

なぜかって?

必然に変えられなかった奴らが辞めていくからさ。

ここだけの話。辞めること自体は悪いことじゃない。
でも、1年以内に辞めると、転職が厳しくなるし、
1年以上頑張った奴にしか見れない景色を君が見れないのは勿体ないよね。
これは3年頑張った奴、5年、10年と永遠と続くんだけど…。

だから君たちに皆さんが贈った「頑張って」という言葉は、
「偶然を必然に変えて」っていう意味だと思ってほしい。

君たちが3年後、5年後、ここに就職し、
こんな仲間と、こんな素晴らしい経験ができて、
「私はシ・ア・ワ・セ」ってほろ酔いで呟くためには、
今の偶然を、必然に変えなければならない。

変えなきゃ、ただの偶然として失くなってしまうんだ。
だから、今から言う5つ力を発揮して頑張ってほしい。

1.好奇心

君が君のままで通用するほど会社(社会)は甘くない。
すぐにすべてが上手くできなくてもいい。
でもちょっとずつ上手くできるようにはなろう。
そのために必要な力は、良い学びを模索する好奇心が必要だ。
自分を高めるための本や映画、音楽でもいい。
常に好奇心のアンテナの感度を研ぎ澄ませておこう。


2.積極性

どんなに好奇心の感度を研ぎ澄ませていても、
そのアンテナがキャッチした情報に、
チャレンジする積極性がなければ意味がないよね。
成功するか失敗するかなんて、やってみなければわからない。
とりあえずやってみようという積極性を大切にしてほしい。
これは冒険心とも言うんだ。

3.柔軟性

君はまだ実感できないかもしれないけど、
世の中、ドッグ・イヤーと呼ばれるほど、ものすごいスピードで動いている。
昨日の常識や流行りが、今日は非常識でダサいかもしれない。
そんな時代には、あれもいいけど、これもいいよねという柔軟性が、
時代の波をサーフィンしていく大切な力になるんだ。
こだわりなんて40歳になったら持てばいいんじゃないかな。
専門性を持っても柔軟性は忘れずに!
このことは実はとても重要なことだから忘れずに。

4.楽観性

くよくよ考えないのも力なんだぜw。
口癖が「まいっか」とか、「なんとかなるさ」って人はいいよね。
まあ、楽観性だけあってもしょうがないんだけどさ。
今はしんどい時代だけど、きっといい時代がやってくる。
今日がダメでも明日はきっと良い日になるって思える楽観性。
それも大切な力のひとつ。

5.継続性

楽しくなるまでには順序っていうのがあって、
仕事が楽しくなるというのは割りと最後の方なんだよ、ここ勘違いすんなよ。
最初は慣れないから何をするにも大変なんだ。
だけど、ずっとやってると、コツや要領を覚えて楽になってくるし、
責任が背負えるようになってくれば、自分の裁量で動ける範囲も広がるんだ。
そのためにも、石の上にも3年
最低3年は頑張って、その仕事を語れるようになってほしい。

以上、これらの5つの力を君たちが持ったとき、
君たちがここで雇われ、働き、この業界で生きていくことが、
偶然ではなく、君の人生の物語の一部として必然なんだって、
思えるようになるんだ。

是非、この5つの力を発揮して頑張ってほしい。
そしてもし、この5つの力が中々持てない時には、
どうか、周りの持っていそうな人に相談してみてほしい。

君がこの3.11以降の時代の、このタイミングで社会人になるのは、
決して偶然ではない。きっと必然だ。
その必然がどういうことなのか、この5つの力を発揮して、
自分自身で確かめてほしい。

お祝いの挨拶に変えて。

上記はクルンボルツの「プランド・ハプスタン・セオリー」をアレンジしています。

ささやかな文化の継承こそが今と未来をつなぐ糸ではないか

朝起きて、窓辺の陽だまりを見て、
アコギの弦でも張り替えようかなと思った。
なんとなく鳴りの悪いのを、
弦のせいにしていたりしていたから。

長女に教えるいい機会だし、
彼女は最近、僕以上に僕のアコギを弾いているし。

自分で弾くギターは自分で弦を張らないと。
自分で履く靴を自分で磨くのと一緒だ。

大切なものを大切に扱うための方法を、
長女に教えた。

弦を切る時は、弦を緩めてからじゃないと、
ネックにダメージがあること。

弦を外した時にしか拭くことができない場所を、
レモンオイルで拭いてあげながら、
適度な油分をネックに与えること。

そしてどう弦を巻けば美しくなるかという美学を教えた。
美学にはチューニングが狂いにくいという機能的な道理がある。

そして次に弦を張り替える3ヶ月後、半年後には、
今日のことを忘れてしまっているので、
反復しながら覚えることの大切さを教えた。

そして僕に任せっきりなチューニングを教えた。

ピアノの低い方から2番目の「ラ」が、
ギターの5弦であること。
全部のチューニングが合うと、
全体的にはネックにテンションがかかり音が下がっているので、
もう一度同じ事をはじめからやりなおす必要があること。

長女は自分のギターが早くほしいと言った。
この子は決してねだったりはしないし、
僕も買ってあげるとは言わない。
その「いつか」をワクワクし続けている感じが可愛らしい。

「このまま◯◯(長女の名前)がお母さんになったら、
 ギターの弦を張り替えるお母さんになるんだね」と笑った。

ささやかな文化の継承。

親の知識を子どもに伝え記憶に残る。
脈々とした文化の継承というのは、
お互いが同じ時間を共に生き、同じことに喜びを感じた証なんだと思った。

この原始的な継承という営みが脈々と僕らの血を繋ぎ、
文化を創りあげてきた。

そのモチベーションは、
できることを教え、できようになる継承の喜びであり、
できなかったことが、できるようになる学びの喜びである。

この継承や学びの喜びが、
少子化により、親から子という流が難しくなっていたり、
コミュニティの崩壊で、
大人から子どもが学ぶことが難しくなっているのなら、
ここに仕組みを入れるべきだろうな。

大人の生き甲斐のために。
と、長女に弦の張り替えを教えながら思った。

2月23日


近頃、エレファントカシマシが無性に聴きたくなる。

それは近所の古着屋で「笑顔の未来へ」が流れ、
めっちゃツボを押された感じがしたからなんだけど。

その宮本浩次の紡ぐ言葉とメロディ、
そしてその声が掻きむしってくる僕の琴線とは何なんだろう?

ぶっちゃけ、年度の切れ目の疲れだろうな。
いや、今書きながら、
どちらかというと不安か?とも思う。

背中を押して欲しい時がある。
誰かにいっしょに歩いて欲しい時がある。

そんな時に耳にイヤホンをねじ込んで
大音量でこの曲を聴く。

そんなときに、スマートにこなしてしまう人ではなく、
目の前のぶきっちょなまでにがむしゃらな人の背中を見たい。

そんな心のニーズを満たす音楽は、
人それぞれあって「パワーソング」とかいうらしい。

僕にとって、それがエレカシであり
宮本浩次なんだよなあ。

いつの日か輝くだろう
今宵の月のように。

マインドマップを使ったカウンセリング

マインドマップ

5年ぐらい前から、マインド・マップが好きで、
自分自身の考えを整理したり、
企画書を作成する前のブレストに使ったりしている。

ここ数年は、このMindNodeがお気に入りで、
あまり手書きすることがなくなっているんだけど、
やはりマインドマップで考えると吐き出せた感が違う。

僕は若者に対する仕事や生活の悩みを聞く、
カウンセラーのようなことをしているんだけど、
大抵、相談の時にPCを持ち込んでいて、
相談者が同時に多くのことを考えすぎて混乱しているときは、
このMIndNodeを立ち上げて、課題ややるべきことを整理し、
それをプリントアウトして渡したりしている。

その時にマインドマップという思考整理術も教えるようにしている。

最近、相談者にマインドマップを宿題にすることがある。
何度か相談を繰り返しているけど、
なかなか出口が見えてこないような相談の時に、
こちらでテーマ設定して、やってもらっている。

相談者の特徴なのか、
マインドマップに慣れていない人の特徴なのかはわからないけど、
ブランチ(テーマからの伸びる枝)の数が少ないことが特徴で、
僕は、彼らに質問しながらブランチを書き足し、
カウンセリングから出てきたキーワードを書き足してもらう。
※A4程度のサイズで書き始めてしまうのが失敗の原因だと思うので、
出来るだけ大きな紙でやるようにアドバイスいている。


この営みが非常にいい。

どんどん心の奥に入り込むような感触があり、
相談者も、僕も気づいていないない「思い」が現れたとき、
一緒に「おぉ!」と言っていたりして興奮する。

カウンセリングというよりも、セッションという感じ。

相談者は心の冒険者で、僕はナビゲーターではなく、
心のファシリテーターのような役割だ。

「ここにブランチを5本足してみようか、きっとなんか出てくるから」とか、
「このブランチに勢いがない理由はなんだろう?」
などと相談者を励ましながら、歩を進めていく。

ご本人が承諾してくれいている一例を紹介しよう。

現在、慢性的に体調不良が続いている大学生の相談者は、
過去や現在に捕われがちで、なかなか未来に目が向きにくかった。
そこで「健康になったらやりたいこと」というテーマで
マインドマップを作成してきてもらうことにした。

やはり、この方もブランチの伸びが2〜3階層目辺りまでしか伸びていなかった。
そして、伸びのいいブランチのすべてがインプット系のやりたいこと、
という特徴があった。

一通り、作成してもらったマップで、
質問と説明という作業を繰り返す。
勘のいい相談者は、重要なキーワードを自分で書き足していく。

そして最後に、
これは「やりたいこと」を吐き出すことがテーマなので、
もっとアウトプット系のブランチを広げて行こうと提案。

そこで先ほどの
「ここにブランチを5本足してみようか」である。

人の脳は、不足した部分を埋めようとする特性がある。
だから、埋まっていないブランチを立てれば、
脳が勝手に働きだす。
苦し紛れに書いた他愛のない言葉に、
無意識の自我が隠されていたりするのだ。

そして最後に、2本しかない「やりたいこと」というブランチに、
「もう一本足してしてみよう」と促し、
思考を深める手助けの言葉をいくつか投げかけると、
そこにある言葉が一文字、書き足された。

それは相談者にとって非常に魅力的なものだったし、
僕も興奮するようなプランだった。

ここからは一気に盛り上がり3階層ぐらいまで深まった。
紙の余白がどんどん埋まり、足りなくなっていき、
次回は、この一文字をテーマにマインドマップをしてくるように
宿題を出し、セッションが終了した。

マインドマップを使ったカウンセリング。
僕は、相談者と自分の間に、何かあった方が相談がスムースに行く、
という特徴を早くから気づいていたけど、
このやり方は非常に有効だと手応えを感じている。

同業の皆様、是非、お試し下さい。
また、すでに実践されている方がいらっしゃれば、
アドバイスをしていただければ幸いです。

“非”就職希望者に、どんなノウハウを伝えても意味がない。

千葉県の高校で、
就職希望の生徒たちへのガイダンスをしてきた。
でもこの中には“非”就職希望者が多くいるはずだ。

彼らは皆と同じように進学したいのに、
保護者の経済的事情で就職をしなければならない。

進学校だと、200名以上いる生徒の中の20人未満ぐらいか。
圧倒的にマイノリティである。

就職なんて、本当は希望していないのだ。
※勿論、積極的就職希望者もいるだろうけど。

この“非”が付いてる間は、
どんなノウハウを伝えても意味がない。
そのことに気づいている人はどれぐらいいるんだろう?

高卒でも君の努力で人生はどうにでも切り拓ける。

例えそれがまやかしだとしても、
僕のMissionは、その“非”を取っ払い、
希望を持って就活に向かわせることだと思っている。

「正社員になることだけがすべてではない」

そう言いたい気持ちはよ〜くわかる。
しかし、この国の国民として生きていこうと思うなら、
正社員にならなければ、サバイバルは相当困難を極める。

“非”就職希望者という後ろ向きな若者が、
この国をサイバイブしていけるほど、この国は甘くない。
それが現実だ。

しかし、生徒からこの“非”を剥がすのは、
そんなに簡単なことじゃない。

うちは貧乏だから、俺は高卒だから…。
或いは、◯◯高校だから、定時制だから、などなど。
彼らは言語化しようがしまいが、そんなことを思っている。

誰もそんなこと気にしちゃいないのに、
自分が一番気にしていて、もうダメだと諦めてる。

これまで多くの若者に出会ってきて、
“非”就職希望者の困難性はまさに以下だと思う。

人は、人に貼られたレッテルは、
努力や頑張りで剥がすことができるけど、
自分で自分にレッテルを貼ってしまうと、
努力や頑張りができなくなり、
自分では剥がすことができなくなる。


レッテルとは「限界設定」だ。
自分で、自分自身の限界設定を「ここまで」としてしまう。
そうすると、本当にそこまでになってしまう。

人に設定された限界は、
「ざけんじゃねえよ!」とぶっちぎれるけど、
自分で決めてしまった限界は超えることができない。

だから、そのレッテルを引っぺがす誰かが必要なんだよ。
そして、僕がその誰かになれるならなりたいと思っている。

ざわついていた教室が、
徐々に集中力を増していくあの感じ。
うなだれいていた生徒が上目遣いで、僕を試すように見ている。

僕はこのノンバーバルなコミュニケーションから、
その希望を多少なりとも感じている。

信じていい大人としてそこにることは、
すごく大変なことだ。

きっと僕だけじゃどうにもならない。

年間行事のヒトコマとして、
いきなり現れても何ができるわけでもないだろう。

チーム大人として、
僕らは若者たちと対峙しなければならない。
そのプラットフォームを作りたい。

課題発見力は非常に高いんだけど、課題解決力が乏しい人。

社会人の基礎力として、
人事採用担当者も評価の対象としている課題発見力。

「現状を分析し、目的や課題を明らかにする力」
という意味なわけだけど。

課題発見力だけがあったんじゃダメなんだよね。

よくこんな人を見かける。

課題発見力は非常に高いんだけど、課題解決力が乏しい人。

ダメナトコサガシばかりが得意で、
イイトコサガシが苦手な人。

評論家のように課題を挙げ連ねるんだけど、
その解決策は一言も出てこない。
ここで終わっちゃう人って本当にもったいないなあ、と思う。

こういう人は、ただの嫌みな人になってしまったり、
揚げ足取りなんて言われてしまうから、
課題に気付けるいい才能があるのに本当にもったいないよね。

課題を発見した際に、
「私ならこうする」という対案を考えたり、
「どうしたらその課題が解決できるのか」を同時に考える癖をつけるべきだ。

「私ならこうする」という、面倒くさい課題解決のフェーズへ、
思考がちゃんと下がっていくかどうかは、
主体的なアントレプレナーシップ(起業家精神)が、あるかないかだと思う。

ていうか、クリエイティブっていうのは、
こういうところにあるんだよ。
「クリエイティブな仕事がしたい」って言ってる奴らに言いたいよ。

オマエの足元にクリエイティブはあるぜ。

昨日のエントリーに書いた、
「民間の人は違うね」というのは、
結局、僕のアントレプレナーシップを指しての発言なんだと思う。

そしてそれは、公共と民間の差ではない。
サラリーマン的か、起業家的かってことだと思う。

アントレプレナーシップは、
起業する意思があるかないかは関係なくて、
起業家的なスタンスでビジネスモデルを探り、
クリティカル・シンキング(批判的思考)をする癖を身につける、
ということだと僕は考えている。

そういった意味で、
僕は学校でアントレプレナー・シップ教育をするべきだと思ってる。

クリティカル・シンキングを身につけ
「私ならどうする?」という思考の癖から、
課題解決モデルを導く力は、
きっと子どもたちが、自分自身の人生をも切り拓く力になるはずだ。

終わりに。

僕の友人がこんなことを言っていた、

自分の師匠からよく聞かされていた言葉が
「人間というのは、何か企てを持たないと生きて行けない。」と、



企て(くわだて)とは、ズバリ下心のコトだと友人はいう。
同感だ。アントレプレナーシップとは企てを持つというとことなのだ!

Twitterの初歩の初歩えながら考えたこと。

今日は、自分の本来業務である若者の自立支援ではなく、
ソーシャルメディアの広報戦略的な活用術について、
セミナーの講師をやってきた。

日々、発信し続けてると、
こういう仕事が舞い込んでくるから面白い。

受講者は、いわゆる『青年の家』と呼ばれている、
全国の青少年宿泊型研修施設職員の方々を中心に、
50名程度の方々で、
20代の若い参加者も多く見受けられたが、
「Twitterの初歩の初歩から教えてくれ」というオーダーだった。

職業柄、ソーシャルメディアになかなか馴染みが薄いとのことだったが、
開始前に挙手でアンケートを取ると、
TwitterもFacebookもそこそこユーザーがいた。

しかし、広報等活用するには至らないという感じ。

懇親会に参加させていただき、
いろいろと話を伺ったところ、
活用には至らない職業柄的障壁は、
どうやら組織構造にあることがわかった。

ある方の言った以下の発言がまさに的を射ている。

「ソーシャルメディアの特性を活かせる、組織形態ではないんです」

今はどうか知らないが、
横浜市ではツイートひとつに稟議書が必要だと言っていた。
あれは、冗談だったのかな?

昨日聞いた話しでは、Facebookへの投稿に、
上司3名を経なければできないと言ってた。
3名が職場にいれば、1日でアップできるが、
いなければ、待たないとならない…。

まさに、ソーシャルメディアの特性である、
タイムリーさや、スピード感、
手軽さが奪われている。

勿体ないなあ、と思う。

今回の企画には、
『青年の家』が、今後社会の中でどう存続していくか、
という抜き差しならない意味もあるわけで、
自分たちの社会的意義をアピールするとともに、
社会的なニーズを擦り合わせる場としても、
ソーシャルメディアを上手に活用するべきだと思う。

例えば、市長選があったとしよう。
A候補は、青年の家の廃止を訴え、
B候補は、存続を訴えているとする。

青年の家のユーザーは、子どもとその家族。
ただ、実際にそう多くの方が利用しているわけではないだろうから、
そう多くの方が知ってるわけではない。

A候補は意味性はさて置き、
こんな施設にこんなコストがかかってると言うだろう。

自分には一切関係のない施設なら、
無駄と感じる有権者も多いはずである。

B候補は、意味性、社会的意義を訴えるだろう。

しかし、日常的な活動の風景や、
それこそ子どもたちのイキイキとした笑顔という、
ビジュアルが伴わないアピールは、訴求性に欠け、
なかなか、有権者の気持ちを動かすには至らないと思われる。

現状では、廃止という話が出たら、
誰にも食い止めれないということだ。

例えばの話として、さらに進めると。

この時、一度利用したことのある保護者が、
その後、Facebookのファンページに「いいね!」してたり、
Twitterをフォローして、
日々の活動を、自分の子どもの小さい頃と重ね合わせ、
懐かしみながら眺めているとか。

そんな余韻をソーシャルメディアで楽しみながら交流が生まれ、
そこから新たなイベントが企画され、
新規ユーザーを獲得し続けていたら…。

その人たちは、
恐らくB候補を応援し、
廃止に対する反対運動をしてくれるかもしれない。

まあ、例えばだけど。

民間なら間違いなくそういう手法を取るし、
現に、同業のNPO法人は上手に活用し、
成功事例を出しているという。

懇親会の席上、
名刺交換していただいた弊社の名刺が話題になった。
ちょっとした工夫が施されており、
絶対忘れられない名刺交換を目指している。

それは、名刺交換というワンチャンスを逃さないため。

「民間の人の発想だよねえ」と言われた。

民間の人の発想=自分の食い扶持を自分で作らなければならない人たち。

弊社の名刺は、法人の生存本能が生んだということに他ならない。

昨日のエントリーに書いたように、
人は、サバイバルな状況にならないと、
やはりやる気スイッチは入らないのか。


しかし、どう考えても、
すでにサバイバルな状況に置かれているはずなんだどな。

TwitterやFacebookで、
この状況を一発逆転できるとは思わない。
しかし、積み重ねのうちの一つの層には、
確実になるものだと思う。

僕の話した話に、
何かヒントがあり、アクションに繋がることを願う。

やる気スイッチは、自己実現なんかじゃなく生存本能で入るんだよ。

やるき

「自力で回復不可能なほど姿勢のバランスが崩れた状態」
これを死に体というわけだけど。

こに国には、
死に体で高校生活を送っている生徒が少なからずいる。

まさに、自分の力では人生を切り拓くことができず、
その不可抗力が精神のバランスを崩し、
誰も信じることができずに自暴自棄になっている…。

そうなったら、
どんな言葉を教師や親がかけても、
もう生徒の心に響くことはないだろう。

中退者の中に、そんな生徒がどれだけ含まれているんだろうか?

しかし、そんな死に体の生徒が、
劇的に変わる瞬間がある。

いわゆる「やる気スイッチ」が入る瞬間。

さて、名言チックなタイトルは、
とあるベテラン教師が、しみじみと僕に言った言葉だ。

僕もしみじみ同意し、頷いた。
とても重みのある言葉だった。

人が変わるのは夢や希望なんていう、甘美なものではなく、
もっと、本能的な欲求を満たせると思ったときだということだ。

例えば安定をもたらす、「仕事」だとか「お金」。
生活、生きることに密着した根源的な欲求。

1.生理的欲求(Physiological needs)
2.安全の欲求(Safety needs)
3.所属と愛の欲求(Social needs / Love and belonging)
4.承認(尊重)の欲求(Esteem)
5.自己実現の欲求(Self-actualization)

これは、有名な「マズローの欲求段階説」

リンクしたウィキペディアを参照してほしいが、
死に体というのは、1や2すら満たすことができない状態だ。

それが、1~3までが一気に満たされたとき、
「やる気スイッチ」は入る。

そりゃあそうだろう。
誰も異論を挟む余地はあるまい。

そしてそれは、「モノ」や「コト」ではなく「ヒト」が起こす。

1~3を満たしてくれた「ヒト」に、なんとか認められたい。
その思いが、4の承認の欲求を煽り、駆り立てるのだろう。

ここをぶっ飛ばして、自己実現を満たしたいとは人は思えない。
思えていたとしても、それはその場限りのものだろう。

即ちキャリア・カウンセラーが語る絵に描いた餅だけではスイッチは入らないのだ。
キャリアカウンセリングが通じるのは、
1〜4の満たされた人に限定的に機能する。
※優れたカウンセラーはこの壁をぶち破ることができるんだと思う。

そのスイッチの鍵を握っているのは、
来もしないヒーローではなく、
すぐそこにいるリアルな大人なのだ。

例によって、例のごとく、またこのオチである。
それを可能にするのが「バイターン」なのである。

奇跡は簡単には起きない。

しなければならないことは、
その確率をどうシステムとして上げていくかだ。

子供のバースデイ・プレゼントが選べない父親

次女の11回目の誕生日。
今回は、すごくプレゼント選びに時間がかかった。
5年生の女の子っていうのは、すごく微妙な年頃なんだなあ、
と、改めて実感した。

4年生までは、ただただ可愛ければよかった。
もっと単純に、ピンクならなんでもいいみたいな。

でも、5年生となると、
ただ可愛いだけのものは、もう子供っぽく感じるのではないかな?
と、父親は成長を感じているものの、
その実態がつかめていない…。

とはいえ、未だに雪が降れば大喜びして遊びに行ったり、
大声で歌を歌っていたり、
まだまだ子どもだなあ、と思う瞬間も多くて、
この子には本当に癒されてたりもする。

と思うと、プレゼントが決めれない。

また、妻が次女の好みを知り尽くしているから、
これはどうかなあと思うものに、
渋い顔をされたり、
逆に、妻から「こういうの喜ぶよ」と勧められたものが、
僕がプレゼントしたいようなものじゃなかったり。

大型ショッピングモールを何度も行ったり来たりした。
この決められなさが、
なんだかよくわからない苛立ちになったりしていた。

次女と僕は、
明らかに長男、長女の距離とは違う。

僕が起業したときに、次女は2年生だったのかな。
僕のライフステージが大きく変わり、
明らかに一緒に遊んだり、過ごした時間が、上二人に比べて少ない。

起業する前の三年間も、遠距離の職場への移動があって、
毎晩帰りが遅かったりしてた。

なんか、そんな距離から生じた、
ちょっした意思疎通の難しさを、
父親という僕は、
日々の端々に感じ、寂しがったりしている。

逆に長女が僕にベタベタで、
ご飯の時は、必ず僕の隣に座るような子だから、
余計に次女との距離を感じるのかもしれない。

プレゼントが選べない。
欲しいものがわからない。

そりゃそうだよな、と、
なんとなく自嘲しながらモール内を歩いて気づいた。

僕はあいつのことを何もわかってないのかもしれないな、と。
少し子育てを疎かにしてしまっていたと、
反省をした。

マグカップで妥協しそうになった僕が、
最後に立ち寄ったのは本屋。

次女は僕に絵を描いてとたまにせがんで来て、
僕が上手に絵を描くのを、羨望の眼差しで見てる(と、勝手に父親というのは思うものだw)。

結局、イラストの書き方という、
可愛いイラストを、描くコツや、
サンプルがたくさん紹介されている本をプレゼントに選んだ。

ちなみに僕は、そういう趣味的教養が広がる土壌を、
どう家庭内に作れるか、というのが、
子育てだと思っている。

これがめちゃくちゃタイムリーだったようで、
次女がとても喜んでくれて、
僕も嬉しかったので、少し飲み過ぎてしまった。

自分の課題がわかっていないと、自分に適した行政サービスにたどり着くことができない。

本日は、横浜パーソナル・サポートサービス「生活・しごと・わかもの相談室」が、
3月末の閉所に伴うイベント『つながりの明日へ~伴走支援の今とこれから~』
というものがあった。

いろいろ閉所についても書きたいことがあるんだけど、
まだ閉所していないので、ちょっとそれはまた別の機会にして、
今日は、第一部に登壇し、PS連携機関のひとつである、
川崎市田島福祉事務所の一之瀬さん(ケースワーカー)の、
以下の印象に残った発言に付いて考えてみたいと思う。

「(本人が)自分の課題が何かわからず、どのような行政サービスがいいのか、一人では選び出すことが難しい人がいる。それに寄り添って、その人が社会のなかで力を発揮するために課題を整理する。それが横浜PSの意義だった。」



僕は保護者セミナーで、
親だからできないこととして、
「子どもを客観的に評価し見立てることはできない」と話している。
故に、第三者である支援者及び、
支援機関を積極的に活用しようと話している。

では、本人。

本人なんだから自分のことを一番理解しているよね、
ということは全然なくて。

いろいろな挫折経験や、それを穴埋めできるような成功体験もなかったりすると、
自己評価と、他者からの評価がどんどん乖離してしまい、
自分自身のことがさっぱりわからなくなってしまっている、
というような人は多い。

だから、一之瀬CWが言う「本人が自分の課題が何かわかっていない」
というのはまったくその通りなのである。

課題がわからないと、どう困るのかというと、
解決の仕方がわからないのだ。
足すのか引くのか、掛けるのか割るのか、
そのコマンドがわからなければ、単純な計算だって答えを出せない、
そういう状態で孤立し、夢や希望が消えていく…。

だから「どうしたの?」と聴いても、
「何かしたいことはないの?」と聴いても、
何も答えは返ってこない。

ちなみに、ハローワークにこの状態で行くと、
本人も、ハローワークの職員も困ってしまう。

そういう状態では、
自分に適した行政サービスを選び出すことが難しい。
難しいどころか、できっこないのだ。

そして、何がその人の課題なのかを知るには、
強い信頼関係や、地道な傾聴のようなものがあって、
本人でさえ気づいていない課題に向かって、
寄り添いながら時間をかけて歩いて行く。

それが横浜PSの意義だった。

うん、そうなんだよ、
僕らは、そういう人たちとともに歩いてきたんだよな。
そして、これからも歩き続けなければならないんだよな、
そんな思いを再確認させてくれた言葉が、もう一つあった。

最後に、わざわざ沖縄から参加してくれた、
沖縄パーソナルサポートセンターの濱里さんの言葉を紹介しよう。

「私たちは今日若者たちの声を聴いてしまった。
 聴いてしまったということは、そこに責任が生じたということです」


この間のうずくまってたおばあちゃん事件
あの時の重さは、知ってしまい責任が僕に生じた重さだった。
それを翌日、Facebookで話しながら、
「できることをちょこっとずつ、たまにみんなでえいこらしょ」
という、その責任を一人で背負い込むのはあまりにも酷だから、
みんなでちょっとずつ持とうよ、ということを考えた。

やっぱここに行き着くんだな、と。
いろいろな点が、僕の中でつながり、
新たなデカイ宿題を持ち帰った一日だった。

保護世帯生徒への支援は本人だけをターゲティングしていたのでは解決しない。

生活保護:埼玉県、受給世帯対象に高校生の無料学習教室
県社会福祉課によると、11年度に県内の高校に入学した受給世帯の742人のうち、同年度末で中退したのは51人、6.9%で、全体の中退率(3.1%)の2倍以上だった。51人の約6割が無職と答え、高校中退が「貧困の連鎖」につながる可能性が浮かび上がった。

簡単にいうと、
生活保護世帯の高校生たちは、
一般世帯と比べて、中退率が2倍であり、
その中退者はその後、6割が職に就けていない。

というデータだ。

これは正直、目から鱗的な驚きというよりも、
そうだろうなあ、という裏付けデータが出たな、
という印象だろう。

このデータの興味深いところは以下だ。

受給世帯の中学生を対象に無料学習教室を開き、
参加者の高校進学率(同年度)は97.5%と受給していない世帯とほぼ並んだ。


高校入試というスタート時の足並みは、
学習支援により十分揃えることができるということだ。
これはなかなか頼もしいデータであるし、
施策の成功として、多いに評価したいところだ。

そういえば、僕が昔、某地方自治体の生活保護世帯の支援をしていた頃、
福祉事務所の合い言葉は「中3を全員全日へ!」だった。

書くまでもないが、
福祉事務所は定時制と通信制は、
中退しちゃうからダメだと言っていたのだ。

しかし、一般世帯並みに高校に入学させても、
卒業させられなければ意味がない。
(ないこともないと思うが話がややこしくなるので)

中退者が多い理由を、
記者は以下のように記してる。

保護世帯は親らによる中退への歯止めが弱い。

多分、記者はこの事実をどう書こうか、頭を悩めたに違いない。

世帯が盤石ではなく、
踏ん張りどころになってないのだ。

中退は学業不振よりも、遅刻欠席が痛い。

保護者自身が低学歴であったり、
中退者であることが、
世帯の学校への押し出し力を弱めている。
このことは、刈谷剛彦をはじめ、多くのデータが語るところだ。

この“歯止めの弱さ”と思春期が重なり、
様々な付随した問題を、これでもかと生徒が呼び込む…。

そしてある日、どこかでぷつりと糸が切れたように自棄になり、
中退してしまう…。

「どうせうちは生保だから…」

この言葉を何度か聞いた。
そして、僕はこの言葉を今後どれだけ聞くのだろうか?

どう頑張り、足掻こうが、底なし沼からは抜けられないんだよ。

これは、保護世帯の生徒たちの心メッセージだろう。

何が言いたいのか。

本人だけをターゲティングした無料学習教室では、
中学生のようには成果は出ないだろう、
ということ。

高校生には、卒後の進路、就職、夢という問題が付きまとう。

これが、アルバイトで初めて稼いだ給料が収入認定された時に、
音もなく崩れ、高卒というキャリアパスの意味が失われる。

生徒の自立は世帯分離という、
世帯を含めた問題と切っても切れない問題なのだ。

この地続き感をイメージ出来れば、
無料学習教室で行うべきは、リアルな実態を伴ったキャリア教育なのだ。

くどいようだが、
それが「保護世帯生徒のための積立て型バイターン」である。

彼ら彼女らの踏ん張りどころを、
地域の皆さんと協力しながら作る。

僕はそこに貢献していきたい。

親は働いてほしいんじゃなくて、家にいてほしくないんじゃないかな。

友人がこんなことをFacebookに投稿していた。

「働いていない=怠けている」だから「急かせれば働くだろう」という親の思考で急かされてゆっくりと自分を見つめられないわかものが多いなぁ。どうにかならないものかなぁ。


これ、支援者目線でいくと納得だし、
保護者にこれまでの経緯をヒアリングしたのち、
待ってもいいなと思えば(←ここ今日のポイントね)、
社会情勢を説明しつつ、やんわり待ちましょう的なアプローチをすると思うんだけど。

今日は支援者ではなく、親として、
好きなことを書かせてもらうよ

単刀直入に言うと、
親はさ、働いてほしいんじゃなくて、
家にいて欲しくないんじゃないかと思うんだよ。


特に一緒にいる時間が長くなるお母さんはね。

週末だけ家にいるならともかく、
平日も子どもが家にいるのって、
親は単純に慣れてないし、
自分自身に染み付いた勤労観ってやつが、
ダラダラしてる(して見える)自分の子どもを見てると、
ついついイライラしちゃって

「なんでもいいから早く働きなさいよ!」と、親は言いたくなる。

子どもの頃、土日に家でゴロゴロしてたら、
親にこんなことを言われたことはないだろうか?

「外で友だちと遊んでらっしゃいよ!」

ほぼこれと一緒だと思う。

誰と、どんな遊びをしようが関係なくて、
子どもが家からいなくなったら、
それでホッとして、コーヒーを飲んだりするのだ。

プロっぽいこと言うと、
ポイントは、親は見た感じの状態だけを見て言ってるってこと。

この時、無業状態の子どもの内面は以下のどれかになっていると思われるわけ。

1)もうどうしていいかわからなくなっている。
2)具体的にはなんにも考えていない。
3)この状態を打破しようと、いろいろ考えている。


問題なのは、親が見た感じ、
どの状態も、どれもさほど変わらないことだ。(←ここ今日のポイントね)

この時「なんでもいいから早く働きなさいよ!」というアプローチが有効なのは、
2)だけだろう。

1)は、その “なんでも” がすでにわからなくなっている。
その “なんでも” を一緒に考える、
或いは誰かに相談する導線を作るアプローチに変えるべきだ。

子どもに切れられたりするのは、大抵3)だろう。
なぜなら、子どもはちゃんと考えているし、どうにかしたいし、
なんでもいいのではなく、ちゃんとやりたいことがあるんだから。

そこに「なんでもいいから」と言われたら、
僕だって切れる。

こういうタイプは、適度に気分転換を図ってあげつつ、
しっかり待ってあげるべきだし、
もしも、これを読んでるあなたがそういう状態なら、
そのことをしっかり伝えるべきだ。

親だからって、子どものことがなんでもわかるもんじゃないんだよ。

結局、支援者的なことを書いてしまったけど、
親子だから複雑だけど、
親子だから普遍であり、わかりやすいんだよね。

最後に、昔なんかで聴いた名言を。

子どもは親が思っているほど、子どもじゃないし。
親は、子どもが思ってるほど大人じゃない。



そういうこと。

てことで、ちょっと宣伝。
保護者セミナーを2ヶ月置きに開催しています。
支援者の方も、行政関係者の方も、教育関係者の方も、
是非、ご参加下さい。

保護者

生活保護世帯積立型バイターン〜予告編〜

これは、僕が過去に経験したいくつかの事実を繋ぎ合わせた作り話し。
そして昨日書いた、この話の予告編。

バイターンはこの問題を、生活保護世帯積立型バイターンにすることで、
解決することができると考えていますが、
この考えはまた改めてしっかり語りたいと思います。


とあるケースについて、とある福祉事務所に行き、
とあるケースワーカーと話した。

“とある本人”を世帯分離させ、
“あの家”から出ることが、
“とある本人”の自立のためになると思うのです。
とあるワーカーに僕は伝え、
手続きをしてほしい旨を伝えた。

ワーカーは、
福祉事務所に顔を出すように言ってるんですけど、
全然約束を守ってくれなくてと、
困ったような笑みを浮かべている。

“とある本人”に、
ワーカーは会えていないのだ。
福祉事務所に来るように言っているのは、
恐らく母親への言伝。

こういうケースはすごく多く、
世帯主ではない“とある本人”たちと、
ワーカーが一度も会えないまま移動になるというのは、
よくある話しなのだ…。

そうやって19歳まで、
一度も歴代のワーカーに確認されなかった、
ひきこもりの男性と、僕は家庭訪問して会ったことがある。

対人恐怖症だという母親と、
何度か会い、信頼関係を築き、
ようやく家に入れてもらえ、その男性に会えた。

男性はその後の検査で知的障害があるとわかった。
心理検査にたどり着くのに1年以上かかった。

話を戻すと、会えていないから、
“とある本人”の様子をワーカーはほとんど把握していない。

でも、80~100世帯、仮に1世帯4人いたら400人。
それだけケースを持っていたら、
同業者として「それはしょうがないさ」と思う。

だから、これはワーカーを責めてるわけではなく、
現実を変えるための、
おおよその実態を知る手掛かりになればと思って書いている。

“とある本人”が把握できないワーカーの、
唯一の情報源は、“あの家”に住む保護者だ。

保護者は多分こう言うだろう。

「何を考えてるのかわからない」
「仕事(学校)にも行ってるのやら、行ってないのやら…」

子どもとコミュニケーション不全になってる親なら、
誰もが言いそうなこと。

これをワーカーは鵜呑みにしないまでも、
おおよその実態として参考にするだろう。

ここで疑問が湧き起こらないだろうか?

なんで学校等に電話して聞かないのか?

学校も職場も、
生保世帯であるかないかは把握できていないのだ。
それは、高度な個人情報だから。

言われてみれは当然だが、
現場ではこんなことが起きている。

ワーカーと先生は出会うことがまずない。
先生が会いに行けば別だろうけど、その逆はあり得ない。

さて、このケースの世帯分離。
ワーカーはまず上司に相談し、検討会議を開くという。

一度も会ったことのない“とある本人”の検討会議を。
そこで、世帯分離を認めるかどうかを話し合うと…。

うーん…どうやって?
ぜったいおかしいよ。間違いなく、うまく行ってない。
噛み合ってないというか…。

もどかしいのは、ワーカーとこのもどかしさが共有できないこと。

今、最低限の生活を保障すると言っているこの国で、
生活保護の保護費の引き下げという議論が活発だ。

今日書いた、この辺の噛み合わせに、
教育を受けたユースワーカーを使うとか、
生活保護世帯が多く通う課題集中校を特区化し、
教員とワーカーがツーカーで仕事してた方が、
実質的な効果を上げるんじゃないかと、
僕は感じている。

だんだん確信に迫ってきている。

本日、首都圏ネットワークで取り上げられたバイターンの補足説明と事業主の皆さまへのお願い。

バイターン2

首都圏ネットワークをご覧になり、
このブログにたどり着いて下さった皆さま、
ご視聴いただき、ありがとうございます。

番組内ではわかりにくかった仕組みについて、
若干の補足説明を致します。

現在バイターンは、神奈川県立田奈高等学校のみで、
神奈川県の新しい公共事業を協議体で受託し、
23年度1月より実施している事業になります。

特集の最後で、アナウンサーの方がおっしゃっていたように、
複数の高校が、開拓企業をシェアできる仕組みを現在模索しています。

開始からちょうど1年が経ち、
40社近くの企業様が登録いただき、22名の生徒が3日間の無給研修を経て、
15名の生徒がアルバイトとして職場で活躍しており、
そのうちの1名は内定を獲得しています。

本日、取り上げられていた美容室の女子生徒ともそのうちの一人です。

このような仕組みが、なぜ高校に必要なのか、
首をひねられた方々もいらっしゃるのではないでしょうか?

現在、全国の高校から、毎年5万人近くの生徒が、
進路未決定、即ち就職も進学もしないまま卒業しています。
この進路未決定者を多く排出しているのが、
普通科教育課題校と、定時制高校だと言われています。

進路未決定者の特徴を皆さんはご存知でしょうか?

1)普通科高校
2)学力下位校
3)女性
4)生活保護世帯
5)片親世帯

1〜2は、経済格差と教育格差の密接関係そのものです。
そして3〜5は本人が選ぶことができません。

進路未決定を、自己責任として片付けてしまうのは、
あまりに酷だと思いませんか?

今日の番組内で、モーニングコールをしていた先生を思い出せるでしょうか?

あれを見て、何を感じましたか。
甘やかし、過保護だと思いませんでしたか?

では本来、あれは誰の役目でしょうか?

想像してみてください。

その役目を果たす人がいない、或は機能を果たせなくなっている…。
だから、地域や学校が世帯の機能を補完している、
それがバイターンです。

彼らの職業人生のスタート時のつまずきは、
やがて彼らの人生に大きな影響を及ぼし、
生活保護等の社会保障を受けるリスクが高くなり、
日本の社会保障を支える中間層になるのは難しいかもしれません。

しかし、今、あの若さで支援の手が伸びればきっとなんとかなる。
今日テレビを観て、そう思いませんでしたか?

ちなみに、生活保護世帯のお子さんは、
実質上、収入認定により在学中にお金が貯めることが出来ずに、
卒後、世帯分離のタイミングを逸し、
そのまま生活保護受給世帯に飲み込まれやすいと僕は感じていますし、
実際、高校生と付き合ってきて、
欠陥のある設計になっていると言わざる得ません。

バイターンはこの問題を、保護世帯積立型バイターンにすることで、
解決することができると考えていますが、
この考えはまた改めてしっかり語りたいと思います。

職業人生のスタート時のつまずき=フリーターに対して、
日本は本当にやり直しがききにくい社会なんですよね。
だからつまずいた若者たちは、そこから這い上がるよりも死を選ぶ…。

若者というだけでこの国はハイリスクな国になっているのです。

普通科の教育課題集中校にも、内定を獲得してくる生徒がいます。
彼らの傾向は一目瞭然です。

彼らはアルバイト経験をしっかりと持つ者たちです。

そうか、緩やかな専門性を身につけるにはアルバイトが有効なんだ。
ふと、そんな当たり前なことに気づかされます。

しかし近年、主婦や外国人のアルバイトが増え、
その分、高校生がアルバイトに就きにくくなっているようです。
これには統計データがありませんが、
実感値で皆さんも感じてるのはないでしょうか?

マクドナルドの店員って、こんなにおばさんだったっけ?

だったら、学校がアルバイトを斡旋し、
働きの良い生徒がいたらそのまま正社員にしてもらう。
もしも、そこで雇用枠が作れなければ、
安い労働力として使い捨てるのではなく、
正社員として通用する人材に育ててもらう。

おざなりなキャリア教育を受けるよりよっぽどいいぞ。

それがバイターンを僕が企画した最初の動機です。

そのマインドは、運営する先生方や、
協議体の仲間たちによってブラッシュアップされ、
ほぼそのままのカタチで仕組みになって、
受け入れ企業皆さまが新たな意味付けを与えてくれています。

しかし、まだまだ、受け入れ企業は足りていません。
どうか、横浜市内、或は周辺エリアで事業展開している皆さま、
高校生の受け入れをご検討を下さい。

社会貢献だけで受け入れるというのはなあ…と、
悩んでいらっしゃる事業主の皆さんに最後に一言だけ。

中途採用者の暗黙値だけ動いていた会社に、
右も左もわからない暗黙値ゼロの高校生が会社にいることを想像してみて下さい。

暗黙知を形式知化しなければ教えることは出来ないしルールにならない。
その形式化する際に起きる、点が線に繫がっていなかったナレッジが
化学変化を起こすことを想像してみて下さい。

そして前回のブログに登場した、ナチュラーレボーノの植木さんは、
自身のfacebookでこんな書き込みをしていました。

「受け入れられるのは生徒の方ではなく、実は自分の方なのではないか?」

僕は間違いなく、コミュニティ経済を煽る
高校生と企業、地域にとってWin-Winな取り組みだと思っています。
或は互恵なプロジェクトだと思います。

興味があれば、是非こちらまでご連絡ください。

僕らは未知への下降線へ突入しているわけではない。広井良典『日本の社会保障』を読み、僕らの代わるべきゴールを考えたい

日本の社会保障

なぜか手が伸びて、
改めて、1999年に出版された広井良典の『日本の社会保障』
「おわりに~定常化社会のビジョンへ~」だけを読んでみた。

安部政権になった今行われている「アベノミクス」に対して
大変重要なサジェスチョンが書いてあると、
今改めて感じたので、まとめてみたい。

高橋源一郎と内田樹の『どんどん沈む日本をそれでも愛せますか?』シリーズは、
このことを徒然に語りあったもの、とも言える気がした。
ちなみにこの本の帯には、
「3.11以降の、もう元に戻れない日本で、我々はどう生きるのか」
である。

3.11前に書かれた広井良典の本書でも、
すでに資本主義の限界が語られている。
もう元には戻れない日本を、元に戻そうとするアベノミクス…。

広井良典の言う、代わるべきゴールが見出せない「目標喪失」状態で、
政治が思考停止をしているから、「戻る」しか発想できないと思う。
世界に先駆けた後期資本主義を生きる日本が、
いま、どんな価値観でこの国の舵を切るのか?

以下の「おわりに~定常化社会のビジョンへ~」の主要部まとめを読み、
改めて僕らの代わるべきゴールを考えたい。


日本の閉塞感の根本的な原因は何か?
・高齢化社会ないし成熟社会についての積極的なビジョンが見えない。
・「成長」ないし「(物質的な富の)拡大」に代わるべきゴールが見出せない「目標喪失」。
・よって、政策をその他を通じて「需要の創出」が普段のものとし「やむことなき成長」を可能にした。

「需要創出」の原動力は
①(政府による)所得再分配政策
②(公共材としての)社会資本の整備
③技術革新
④広告やモードを通じた消費刺激

・「金融」が市場の円滑油を越え、経済システム全体を左右する時代が、おわりを告げようとしている。
・新しい時代の特徴は「定常型社会」。これは少子高齢化が進んだ人口がフラットの状態になった社会。
・環境や資源の有限性からも、定常化が自ずと要請される社会。

・こうした社会においては、成長や拡大というコンセプトは人々にとっての指導理念や目標になりえない。
・広い意味での文化に関わる欲求とか、自然やコミュニティとの相互作用、あるいはそこでの時間を楽しむことが、人々の中心的な関心となる時代になるだろう。
・若い世代はすでにある程度親和的になっている。
・日本においてもっとも重要なのは、経済成長の維持ではなく、「定常化社会へのソフトランディング」ではないか。


・それには、より本質的には成長や効率や時間といった基本的な理念についての根本的な価値観の変更が必要。
・これらの変化は、一種の回帰、つまり「定常状態への再移行」であって、未知の下降線への突入ではない。

心地良いコミュニティの条件とは何か?〜おっさんバンドに見る6つの条件〜

すたじお1

僕のサードプレイスはこのバンドだな、と改めて感じるスタジオでの一日だった。

僕なりに、
この全員が40代以上のおっさんバンドというコミュニティの心地良さを、
孤立しがちな現代日本の大人たちが、
心地良いコミュニティを構築する際に“あったらいいもの”として定義してみよう。

ちなみに最近の定番の活動スタイルは、
9時から12時までスタジオで汗かいて、
12時から18時まで磯丸水産でホタテ焼きながら、
音楽談義をするというアフター・ジャムの方が完全に長いスタイルである。

1)共通した尋常ではない基礎知識を持つ仲間
とにかく音楽マニアが集まっているので、
余計な注釈なしに、社会一般に流通していない言語で
音楽についてストレートに語り合うことできる。
このスムースでストレスレスなコミュニケーションが堪らない。
「ソウルやるならノーザンじゃなくサザンがやりたい」みたいな、
普通の人が聴いたらなんのこっちゃな話が普通にできるw。

ポイント:「地域コミュニティを考える会」みたいな、
おおざっぱなテーマで人を集めるのではなく、
「男料理好きが地域コミュニティを考える会」にするべし。


2)あり得ない共感ポイントを共感し合える
別々の人生、別々の時間をバラバラに過ごしてきたのに、
観てきた映画や、持ってるレコードの被り方が半端なく、
部屋でしてきたことがまったく一緒という同じ穴のムジナってヤツ。
一般的な飲みの席ではどん引き間違いなしのエピソードに、
「そうそう!」「あるある!」「やったやった!」のニヤリの連発w。
大好きな物、文化をこれでもかと共有している感じ。

ポイント:セグメントを強烈に絞り込んでしまう。
当バンドもメンバーチェンジはけっこうあるのだが、
その都度、強烈なメンバーが加入しているのは、このセグメントの強烈さ故だ。
「40代の男料理好きが地域コミュニティを考える会」にするべし。


3)いい歳こいたのに成長している実感がある
昨日も、アフター・ジャム(飲み)がなんで盛り上がったかというと、
自分たちが演奏的に新たなステージに突入したという、
成長してることの実感を、みんなで共有できたこと。
マンネリにならないためにも、前回(昔)の自分たちよりも
今回の自分たちの方がすごい!と感じられること。
ここすごく大事な気がする。

ポイント:会って話すだけ、飲むだけではなく、
ちゃんと動きのあるものを入れ、成長を実感できる機会を提供する。
「40代の男料理好きが地域コミュニティを考える会」による、
お料理教室を開催すべし。


4)世知辛い利害関係からの解放
業界が近い人同士が仕事の話もしてるけど、一切の利害関係がない。
誰かを利用してやろうとか、
利用されないように気をつけなくちゃ、
というような面倒な配慮から解放されてるのがいい。
逆に言うと、僕らは日常的に強烈な利害関係の中を過ごしているともいえる。

ポイント:仕事の話をしてはいけないのではなく、
むしろアリである。しかし、そこを一義的な目的にしない。
そのためのセグメントの強化であり、
「地域コミュ二ティを考える会」だとその傾向は強くなる。
利が得られないから足が遠のくということをなくそう。


5)クリエイティビティと自己表現の承認
バンドという音楽表現をしているので、
そこには選曲から始まり、アレンジ、楽器をプレイするすべてに
クリエイティビティが存在している。
そして、それを表現している自分がいて、
しかもそれを評価し認めてくれる仲間がいる。
日常の中でこれほどまでのアウトプットを持つことができるだろうか。

ポイント:仕事というのは思いのほか、
クリエイティビティから遠かったりしている。
よって「40代の男料理好きが地域コミュニティを考える会」が、
イベントを開催するなら、“オリジナルレシピ”お料理教室にするべし。


6)優しいトライ&エラーの受容
昨日は4曲の新曲がエントリーしてあったんだけど、
2曲はグダグダだった(苦笑)。
ちゃんと練習してきた人と、まったくしなかった人がいたわけだけど、
練習してきた人の機嫌が悪くなるとかそういうことはこれっぽっちもない。
「ライブやろうよ!」なんていう新しいことにチャレンジする機会があり、
失敗が笑って済まされる。ここも大事なところ。

ポイント:講師を呼ぶとか、先生と生徒という関係を作らない。
また、共通の忙しさ、或は暇さなど、そのコミュニティに割ける時間が、
ある程度同じ人たちだと、「しょうがなさ」が共有できてよい。
「40代中間管理職の男料理好きが地域コミュニティを考える会」にするべし。



ちょっとふざけすぎたかもしれません。

このような場(サードプレイス)は、ある人はフットサルとか釣りとか、
中には2つも3つも持ってる人がいるだろう。
しかし、世の中こういう場を1つも持っていない、
所謂「孤立」している人が多くいるように思う。

孤立していなくても、
家(ファーストプレイス)と会社(セカンドプレイス)以外の居場所を持たない人は多そうだ。
そんな人たちが仕事を失った途端に孤立してしまったりする。

サードプレイスを持たない団塊世代の男性が、
定年退職後にコミュニティへの参加ができずひきこもりになるなんて話は、
笑えない話だけど、実は深刻な問題になっている。

笑いながら、ご参考になったら幸いだ。

2月9日

僕のfcebookの友人が、
高校のPTA仲間のお母さんたちとお茶し、
就労の話しとなった。

友人はバイターンを思い出し、話をしてみたら、
二人のお母さんが、
「キャー!!知ってる!シェアするココロの石井さんでしょう!!」となって、
びっくりしたと、メッセージをくれた。

僕もびっくりだ。

話を聞くと、ああ、あの時のママさんかと思い出した。

お正月に「発達障害のライフスキル」のシンポジウムに参加していただき、
名刺交換でお子さんの話をされていたママさんたち。

ちゃんと、記憶の中にタグ付けされてたんだ。

嬉しいな。

求められている実感を、
もうすぐ起業して4年が経つが、
いま一番強く感じれてる気がする。

そしてそのどれもが切羽詰まっている感じや、
いてもたってもいられない感じの熱がある。
みんな、今いるこの場所から、
次のステージへの移動を模索している。

そのブレイクスルーのきっかけを提供し、
その方々の人生が少しでもポジティブな方向に向けば、
どうしょうもないこの僕も、
生まれてきた意味があったってもんだ。

こんなに嬉しいことはない。

みんなが
必要とし続けてくれるために、
僕もネクストステージを目指し頑張ろう。

ちょっとしんどい一週間だったけど、
救われるメッセージだった。

ありがとう。

NHKの『首都圏ネットワーク』でバイターンが放映されます!

ボーノ

シェアコロを含む5団体で協議体を作り、
神奈川県立田奈高校で行っている有給職業体験「バイターン」

今日は、生徒の受け入れを控えた、
藤が丘の田舎風イタリア料理「ナチュラーレ・ボーノ」さん(写真)で、
NHKの『首都圏ネットワーク』のクルーが取材に入っていた。

インタビューを受けているのは、オーナーの植木さん。
食にまつわる喩え話で、人生の酸いも甘いもすべてを語り切ります。
そしてそのすべてが含蓄ありまくり!

NHKさんには、途中、衆議院選挙を間に挟んで、
去年の10月から、取材をしていただいてて。
この間、担当の先生との細かなやり取りをしたり、
実際の研修先に行き、社長さんや生徒にインタビューしたり、
担当ディレクターさんの理念共有が半端じゃない。

さすがNHK。
仕事が丁寧で恐れ入る。
放送は2月12日(火)「首都圏ネットワーク」で、
18:10〜19:00の間で7〜8分の放送される予定。

録画の予約を忘れずに。

非常にデリケートな問題を扱った取材なので、
どこまで、本質が伝わるか…。
アルバイトをしたことのない生徒や、
様々な困難な課題を抱えた生徒が、
「個人の責任ではなく社会の課題であることを伝えたい」と、
おっしゃってたことに期待したい。

そして、バイターンをやってて思うのは、以下の仮説。

生徒が、一人でも多くの地域の“いい大人”に出会えば、
生徒の自立可能性の確率は上がる。


ということ。

バイターンでは、この“いい大人”が、
自分でビジネスをしている人たちであり、
人材育成のまなざしが強い方が多いのがポイントだと思う。

このマッチングにかかるコストと、
マッチング後の生徒が社会人へと成長した場合の生涯納税額の差額。
そして、何もせずに進路未決定から無業者になった場合の社会的損失。
などなど…。

今日、植木さんがつくづく話していたのは、
どうせ教えるなら、苦労している生徒を教え、
自分でもやれば出来るんだ、見返せるんだということを知ってほしい。
この植木さんのモチベーション、プライスレス。

それがどれだけの可能性、希望を生むのか計りしれない。
でもちょっと計ってみよう、このソーシャル・インパクトを。

ユースワーカーよ、大人たちを見ずに、若者だけを見て仕事しろ!

嫌味のようだが、僕の特技はスピード出世である。

これがどういうことかというと、
僕には常に先輩の部下がいるということ。

僕は、そういう方々と割と上手く立ち舞えるタイプだと思う。

今夜は、僕がNPO法人で働きはじめた頃の話。

ここでも、1年も経たずに副センター長という役職に就いた。
そして、ここでも先輩部下ができた。

ソーシャルな世界では、
ある種の既得権益を守るということだと僕は思うけど、
未経験者や無資格者は舐められやすい。

僕はそんな場で後輩上司になり、
一部の現場スタッフたちにシカトされるようになった。

大人になってからこんな経験をしたのは、はじめてだったし、
これが最後の経験になっている。

僕から挨拶しなくなったら、
なんか終わりな感じがして、
シカトするスタッフたちに挨拶をし続けたっけ。

若者たちとの関係はとても良好で、
相当、機能できているという自覚もあったし、
とても充実していた。

まあ、発達障害のこととか、
全然わからなかったし、
まだ、そんな言葉が流通してない時代だった。

現場では若者たちといい感じで絡みながら、
スタッフルームでは誰とも絡むことができない日々、
会議はいつもどっちらけだった。

僕なりにしんどかったのだろう、
「辞めたいな」と思うようになった。

その頃僕は、ベテランの女性スタッフと、
毎週土曜日にフリースペースを担当していた。

その帰り道、僕は相談してみた、
辞めたいなと…。

その時、
この方は僕にこんなようなことを言ってくれた。

「若者たちは、みんなあなたを慕っているんだよ。
 そんなスタッフたちよりも、彼らはきっとあなたを選ぶだろう。
 もう大人たちを見て仕事をするのはやめなさいよ。
 あなたは若者たちだけ見て仕事しなさい」


僕はこの言葉があって、
今日ここで、この仕事をしている。

そして、支援者としての僕のポリシーは、
「大人ではなく若者を見て仕事をする」ということになった。

雇用主からすると、面倒くさい支援者だったろうなと、
今、雇用主になった自分は、
昔の自分をそう思う。

しかし今僕は、大人たちの一挙手一投足をつぶさに観察しながら、
次の一手に思いを馳せ、仕事をしている。

いつか本当に、
大人たちを見ずに、若者だけを見て仕事ができる、
そんな現場が持てるようになるために。

そういうフェーズに僕は進んだんだ。

杉浦大蔵で考えるキャリアの本質

杉浦

杉村大蔵には、なんの思いいれもないんだけど、
杉村太蔵氏、“国会議員→タダの人”成功の秘訣を語る
というインタビューのなかで、
これは、キャリアの本質を語る上での名言だな、
と思うものがあった。

「人の評価ってわからないですよね。やりたいことと、周りがやってほしいことって違うものですね」


この間のユースワーカー研究会でも、
ユースワーカーの成長を考えた際に、
スキルは伸ばせるけど、
センスというのは、生まれ持ったもので、
のびしろのないもの、
だから伸ばすではなく、磨くものなのではないか?
という面白い議論があった。

僕はこの仮説を支持する派である。
そして僕も、スキルではなく、
センスで若者たちと付き合うタイプの支援者だと自覚している。

キャリコンの勉強も、
理論やスキルを身に付けようとしたんだけけど、
結果的には、センスを磨くことになったように思っている。

人材育成というのも、
圧倒的にはセンスを磨くものではなく、
スキルを上げるものとして構築されている。

でもこのところの僕、
正確にはユースワーカー研究会の議論後、
それは違うんじゃないかと考えはじめている。

例えば、自分はツッコミだと思ってる支援者がいて。

でも、ツッコミどころがビミョーに的を外すんだ、この人は。

それがコミカルで、周囲を和ますとか。

この人の自己評価はツッコミだけど、
他己評価ではボケだったりする。

こんなことの例えは枚挙にいとまがない。よくあることなのだ。

この時、他己評価であるボケを受け入れられるか、
受け入れられないかで、
この人のスタッフ人生は大きく変わるだろう。

これは、杉村大蔵が、
太田光の言った
「薄口政治評論家」を受け入れられるか、
受け入れられなかったかに通じる。

杉浦大蔵にセンスはあるのか?
間違いなくあるから人気者なのだろう。

でも、彼はそのセンスに無自覚で、
むしろ、はじめはムッとした。

ジョハリの窓的に言えば、
盲点の窓を不意に開けられ、ムッとしたんだろう。

そしてそこには、自分では気づいていないけど、
誰かは気づいているセンスを持った自分が、
ひょっこりと体育座りしている。

このことは、そのままコーリング、
天職とは見つけるものではなく、
呼ばれるものという価値観に通じていく。

ありのままの自分をさらけ出す。

すると、どこかの賢者がこういう。

「君はあれをおやりなさい」。

君はどうするべきか。

「はい」それでいいと思う。

重要なことは何か、
ありのままを賢者の前にさらけ出すという行為だ。

今の就活はここが形式化され過ぎてしまい、
「なんか違う」が大量生産されているのだ。

究極的には、
就活から自己理解は取っ払ってもいいのかもしれない。

「できることをちょこっとずつ、たまにみんなでえいこらしょ」

昨日のブログ「うずくまっていたおばあちゃんを助けてブルーになった話」のことを、
昨夜はずっと考えていた。

朝、眠たい目を擦りながら、
いつものようにコーヒーを飲みながらFacebookを開いたら、
いくつかの温かいコメントが、ブログのリンクついていた。

その中のひとつが、いつも僕を励ましてくれるYさんのコメント。

なんか救われた。いや、とっても救われたコメントだった。
そうだよなあと思い、気持ちが軽くなったので、
皆さんにも勝手に紹介しよう。

そのまま通り過ぎていたら、憂鬱にはならずに、ただ忘れてしまったかもしれないおばあちゃんのこと。

多くの人が、忙しさを理由に関わろうとしないのは、そういう自己嫌悪を、無自覚に予見しているからかもしれません。

石井さんが、おばあちゃんと過ごしたような時間を、何人もが過ごしていく、そういう地域をつくっていくことで、一人だけが自己嫌悪する現実が変わるのでしょうね。


そう、僕には通り過ぎるという選択肢があったし、
いつもならそうしていただろう。

「何もできない無力な自分」を思い知り、自己嫌悪するのが嫌で。

だから、それを予見し、通り過ぎていた。
その通りだと思う。

そして僕は、
「ずっと関わり続けることはできないから、関わらない」
という言い訳を自分にしているんだとも思った。

ずっと関わるというのは、
その方の人生を背負い込むことなので、非常に重たい。
こっちだって必死こいて生きている。
下手すれば、こっちが押し潰されるかもしれない。

ここで、普通は思考が停止し、
目の前の困っている人をスルーしてしまう。

「バカの壁」ではなく「善意の壁」、いや「偽善の壁」か?
この壁をブレイク・スルーするヒントがYさんのコメントにはあった。

僕が、おばあちゃんと過ごしたような時間を、
何人もの地域の人が過ごし、関わっていく。


ずっと関わるんじゃなくて、
みんなでちょっとずつ関わればいい。

チームを組んで、自分はそのちょっとになればいいし、
昨夜の僕はそのちょっとをやった。
これって、当たり前にコミュニティにあったことなのでは?

「できることをちょっとずつ、たまにみんなでえいこらしょ」

こういうことかと、キャッチコピーを考えてみたりして。

なんか、僕はスッキリした気持ちになった。
昨夜のブログはいいね!が100を超えた。
ああ、意味あるの事をしたな、と…。

しかし今夜、あのコーナーに差し掛かったとき、
今夜はいないでくれよ、と強く思った自分が、
はっきりと感じれた。

こんなSNSの交流では、
あの、おばあちゃんの生活は1ミリも変わらないんだよ。
自分の中から声が聞こえた。

これで終わりじゃない。
ここから考え続けること。
まずは挨拶を積極的にするでもいい。
自分にできるアクションを起こそう。

うずくまっていたおばあちゃんを助けてブルーになった話

とてもショッキングなことがあった。

以下、書くべきか迷ったが、
実は、誰も知らないだけで、
リアルな日本社会の実態なのかと思い、書きたいと思う。

駅からの帰り道、23:30頃、自転車を飛ばす僕。
それはつい10分前のこと。
我が団地に入る最終カーブに小さなうずくまった人影。

そのまま行こうか、と、正直思った。

ふと、野宿者支援をしている僕の仲間を思い出し、ブレーキを握った。
僕は地元ではなんにもしていないただの普段着のおじさんでしかない、
そういう劣等感が、ふっと湧いた。

僕は自転車を停めて、大丈夫かとちょっと観察した。
よく見ると、裸足のような気がして、声を掛けることにした。
近づくとサンダルは履いていた。

「大丈夫ですか?」と、声をかける。

大丈夫だと直ぐに立ち上がろうとするので、手を貸した。
それはそれは、小さなおばあちゃんだった。
『AKIRA』に出てくるような小さなおばちゃんだった。

今、冷静に支援者目線になって考えると、
ただ、「大丈夫ですか?」を待っていたのではないかとも思う。

僕は体臭が気になり、心配になったと同時に、
「家まで送りますよ」と、おばあちゃんの手を取った。

歩きながら、具合が悪くなったのではなく、
飲み過ぎたということと、
家に猫と二人暮らしだということがわかった。
変な話だが、この方と僕の共通の話題はネコ。
そういう職業意識が働いた。

ていうかスイッチが入っている。

月に1〜2度、お酒を飲みに行くという。

僕は思う。今日は保護費の支給日なのかもしれない。

何号棟か聞いたら、団地の人ではななく、
団地に隣接するアパートに住んでいる人だとわかった。

50メートルぐらい歩いた所で、
一度休憩を入れ、僕も横に座る。

僕も酔っ払っていたから、
吸わない煙草を、吸いてえなあ〜と思う。
この時点で、相当ブルーになってたんだと思う。

「うちにも猫がいるんだよ、名前はラッキー」
と話すと、おばあちゃんも「うちのはアビちゃん、アビニシアンだから」
と、話してくれる。

再び歩き出したとき、自然と手をつないでいた。

あなたは、支援者なのかと聞かれた。

本当はなんて聞かれたか忘れたけど、そんな質問をされた。
「いつもは引きこもりとかニートの若者の支援してんだ」と答えた。

そうしたら、おばあちゃんは子どもが三人いて、
そのうち二人が引きこもっているという。

僕は話の辻褄を合わせようようと、
「一緒に住んでるの?」と聴いてみる。

別れた旦那の家にいるらしい。
相当苦労をされたんだろうなあと思いながら話を聞いていると、
アパートの前に付いた。

2階だというので、階段が心配で、部屋まで送ることにした。
直ぐ寝るのか聴いたら、自分は精神病で夜が眠れず、
となり町の病院に通っているという話になった。

僕は間違いなく生活保護を受けていると思ったけど。
そこまで立ち入るようなことは出来ないと思い、聞かなかった。

部屋に着くと、鍵がかかっていなかった。
ドアを開けると、暗闇から、おばあちゃんと同じ匂いがした。
縛られた雑誌が入り口に山となり、
縛られていない雑誌が、絨毯のように暗闇に敷き詰められていた。

おばあちゃんは、暗闇を手探りで進もうとしている。

おばあちゃんは電気を点けようとしなかった。
僕は危ないと思い、玄関の小さな明かりを点けた。

これも、今思うとだけど…。
汚い部屋を見られたくなかったのかな、と思う。
おばあちゃんは、しきりに上がっていきなと僕を誘う。
お礼がしたいんだろうと思ったけど、
僕は家に上がる気にはなれなかった。

「また、町であったら声をかけるよ」

という僕に、おばあちゃんが言った最後言葉が、僕を今も苦しめてる。
それはシンド過ぎて書く気がしない。

アパートの階段を降りながら、
涙が出てきてしまった。

僕の日常といえる範囲に、こういうことが起きている。
きっと、孤独死してしまう人は。あの人だろうと思った。
そして僕は、家に送ることしかできない。

いや、それしかしない。

自己嫌悪は、普段ほとんどしない僕だけど、
自己嫌悪なう。

これを誰かに伝えれば、誰かがどうにかしてくれるのか?
そういう導線が見えないと、僕は黙るしかない。

点と点をつなぐクリエイティブ・シンキングのコツ

日常生活の中で、点と点を結びつける能力を鍛えるには、喩えを使ったり、類似点を挙げたりすることが役に立ちます。(中略)人や場所、モノ、アイデアを思いがけない形で結びつけることで、想像力は大きく膨らみます。このスキルを鍛えるには刺激的な比喩を使うこと、普段とは違う世界にふれること、既存のアイデアを積み上げていくこと、ありえない場所にヒントを探すことです。こうした方法はクリエイティブ・シンキングの能力を高め、斬新なアイデアを思いつくための素晴らしいツールなのです。


これは、ティナ・シーリグの
未来を発明するためにいまできること』スタンフォード大学 集中講義Ⅱ
からの引用である。

そして、次の引用は、有名なジョブズの名言。
偶然にもスタンフォード大学の卒業式でのスピーチ。

未来に先回りして点と点をつなげることはできない。君たちにできるのは過去を振り返ってつなげることだけなんだ。だから点と点がいつか何らかのかたちでつながると信じなければならない。


そして最後に僕の名言w。

多くのことを考え、多くのことを吐き出して、出来るだけの多くの点を打っておく。点の数が多ければ、線でつなげた時に、より具体的な輪郭をアイデアに与えることができる。少ない点をつなげた星座が乙女やサソリに見えないようにね。


ティナ・シーリグが言っていること。
これはきっとそうなんだろうと納得する。

自分で言うのもなんだが、
僕は人よりいろいろなアイデアを考えつく。

そしてそれが会社を動かす原動力となっている。

そんな自分は、日常的に刺激的な比喩や喩えを使ったり、
別な者同士の類似点を探したりすることが大好きで、
頭の中が、もうそういうことをするようにプログラミングされているんだと思う。

そして、そういうことがとても大事なことだとも感じていた。

この日記を毎日書いているんだけど。
毎日書くということは、毎日アウトプットすることであり、
点を打ち込む作業である。

ジョブズが言うように、過去を振り返った時に、
どこにどう点を打っておいたかが重要なのだ。

当然のことながらニュース等、インプットすることが日課となり、
日常で感じた心の動きを自分自身の中で反芻し、
覚えておかなければ、日記は書けない。

そうすると、必然的にインプットの感性が研ぎ澄まされていく。
そして、アウトプットの段階で、比喩や喩えを日常的に使うことが、
アイデアを生み出す下地を作る作業となっているんだと考えている。

なんとなく、必要と思って始めたことが(引けなくなったともいえるが…)、
『未来を発明するためにいまできること』の引用部分で、
大きな意味として線でつながり、今、これを書いている。

斬新だろうと、くだらない駄洒落だろうと、
点と点を線で結ぶクリエイティブな営みであり、
日頃の努力の証なのである。

サードプレイス再考~ネクストプレイスへ繋ぐ3.5プレイス~

都市生活学者のオルデンバーグは、
都市生活者には三つの“居場所”が必要だといっている。

第一の場所(ファーストプレイス)が「家」。
第二の場所(セカンドプレイス)が「職場」や「学校」。
そしてその二つの中間地点にある第三の場所を「サードプレイス」と呼ぶ。

そして、僕と僕の仲間(仮に3.5プレイス研究会とでもしておこう)で議論していることは、
サードプレイスに、何らかの専門家、例えばソーシャルワーカーをスタッフにすることで、
サードプレイスから「ネクストプレイス」への繋ぎが生まれる。
或いはサードプレイスが、コミュニティや、
社会的資源に結びつくハブの役割を果たすようになる。

ダジャレだが、パプがハブになるってことw。

ハブになったパブは、サードプレイスではなく、「3.5プレイス」と定義付け、
そして何らかの繋がり先を「ネクストプレイス」と呼んでみる。
そうやって、新たなソーシャル・デザインの潮流を作れないか、そんな話しをしている。

ちなみに、僕が毎週行ってる田奈高校の、
ぴっかり図書館は、サードプレイス。
そこに田奈Passが入り込むことで、
3.5プレイスになる。
そこから生徒たちが横浜パーソナル・サポート・サービスや、
バイターン、或いは医療機関などに繋がれば、それらがネクストプレイスになる。

オルデンバーグが提唱する、
サードプレイスの8つの定義
から、
まずはおさらいしよう。

1.Neutral Ground ニュートラルな場所
2.Leveler 平等
3.Conversation is Main Activity 楽しい会話がメイン
4.Accessibility and Accommodation 行きやすくて便利
5.The Regulars 常連がいる
6.A Low Profile 他者へのさりげない気遣いのある健全な雰囲気
7.The Mood is Playful 遊びごころ満載の雰囲気
8.A Home Away From Home 家のような場所


さて、皆さんにとってのサードプレイスはどこ?

同じ質問を、ぴっかり図書館の司書さんに聞いてみた。

「…私はないな。私はここがサードプレイスかな」

僕がぼんやり考えてた仮説が輪郭を持った気がした。

それは、オルデンバーグがサードプレイスの枕につけてる言葉、
「都市生活者には」をどう読むかということ。

では田舎暮らししてる者には、
サードプレイスは必要ないのか?
それはどうして、ということ。

本を読めば書いてあるはずなのだが、
残念ながらオルデンバーグのこの本は、
翻訳されていない。

孤独な都市生活者には…。
仕事に疲れた都市生活者には…。
可視化された空気を読みながら生きる都市生活者には…。
非正規雇用で不安定な都市生活者は…。

まあ、とにかく都会という
サバイバルな環境に生きる人にとって、
オアシスのような場所がどうしても必要で、
それがサードプレイスなのである。

湯浅さん的にいえば「溜め」ということかな。

話を戻すと、僕の仮説は、
セカンドプレイスである職場が、
或いは職場の人間関係が、
或いは職場の中のあるスペースが
とても健全な環境である人には、
サードプレイスは不要なのではないか?

そして、サードプレイスが不要な人たちが持っているもの、
それが2.5プレイスなのではないか。

ひょっとしたら社員食堂なんていうのも、
2.5プレイスかもしれない。
2.5プレイスが完璧に機能していれば、
サードプレイスは不要なのではないか。

いや、2.5プレイスは会社の中なので、
上下関係が当然あり、どんなにフラットな組織であっても、平等ではない。
即ち、ニュートラルに見えて、ニュートラルではない。
楽しい会話ばかりしているわけにもいかない。
1~4の条件は、2.5プレイスにはないのだ。
その代わり、5~8がしっかりとあれば、
それは2.5プレイスの条件になるのではないか。

そして、上記の8つに加え、
以下の2条件が加わると3.5プレイスになる。

9.必要に応じて、専門相談員のアドバイスを受けることができる。
10.更に支援が必要であれば、専門のプログラムに繋がることができる。

ワンワード化するなら、
「専門家がいる」と「リファー」だろうか。

僕は小数点を理解するのに、
すごく戸惑った子どもで、それは今もずっと続いている。

とても書いていて疲れてしまったので、
今日はこの辺で。

断続的に3.5プレイスについては考えていきたいと思う。

過去に書いたサードプレイスのはなしは、こちら

定時制高校は「4年になるとオタクとヤンキーのコラボができるようになる」らしい。

ある定時制高校の、
1年から3年生を対象に行う講演会の打合せで、
先生方とディスカッションをしていら、
女性教師からこんな面白発言があった。

「4年になるとオタクとヤンキーのコラボができるようになる」

なにそれ?

確かに定時制高校にお邪魔すると、
オタク系とヤンキー系で生徒が二極化し、
その分断ぶりにはちょっと驚きを感じるぐらいだ。
先生はそれを“棲み分け”と言っていた。

それが、4年になるとオタクとヤンキーのコラボができるようになる。
そして、「ヤンキーの中にしかいないヤンキーは仕事が決まらない」
という気になる発言もあった。

ほんとか?

オタクたちは、ヤンキーたちのことを「うるさい」と思ってる。
ヤンキーたちは、オタクたちのことを「キモい」と思ってる。

3年までは、そうやってお互いを把握しつつ距離をとっている。
4年になるとこの距離がぐっと縮まる。

それは、いっしょに履歴書を書いたりしながら、
卒業という「終わり」を実感し、共有することと、
4年間ともに過ごし、頑張ってきた戦友的な共感のようだ。

人間的な成長もあるんだろうなあ。

女性教師が、直接その理由を生徒に、
「君たち全然仲良くなかったのに、なんで仲良くなったの」と聞いたみたら、
「案外興味のあることが重なってる。だけどアプローチが違うから面白いんだ」と、
あるヤンキー系の生徒は答えたそうだ。

さらに面白いなと思ったのは、
就活というのは、結局みんなそこから逃げ出したいものなんだけど、
ヤンキー系の生徒たちがけっこうそこで踏ん張る。
落ちても二社目、三社目にトライし、結果を出す。
そこにオタク系が引っ張られる。

いいな、それ。

3年じゃそうはならないんですかね?
と聞くと、「ならないですね」と即答。

そういう設計のための4年じゃないにしろ。
この4年間という時間にマジックがあるような気がする。

定時制とはゆるやかな繋がりをずっと持っているんだけど、
どこかでガッツリとしたお付き合いをしてみたい。

なにしろバイターンの初期的イメージは、
定時制高校の昼間のアルバイトからそのまま就職という、
昔にはあった定時制高校の黄金パターンの復活させたいという思いから
はじまったのだから。
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